団塊男、ベトナムを行く    ハノイの北は  
1999.6.記
1.ハノイ到着 2.ハノイの旧市街 3.ハノイの街並み 4.ハノイ郊外
5.サパへ .サパの蝶々夫人 7.ラオチャイとカットカット .ソンラーへ
9.ランクルの旅へ 10.ディエン・ビエン・フーへ 11.マイチャウから 12.チュア・タイ寺院
13.観光地ビック・ドン 14.ホテル:メトロ・ポール 15.さようなら

   

13.観光地ビック・ドン

 シン・カフェのバスは、7時きっちりに迎えに来た。
白い日本製のマイクロバスで、20人くらいが乗れるだろうか。
すでに4人ほど乗っている。
日本人の女性が1人で乗っており、挨拶。
しばらく情報交換をする。
最近、日本人の1人旅が増えたように感じる。
しかも嬉しいことに、最近の日本人旅行者は、きちんと挨拶をしあう。

 外国にまで来て日本人とは口もききたくないといった以前の風潮とは違って、お互いに笑顔で挨拶し、言葉を交わす習慣が定着してきたのは、日本人も大人になったように感じる。
それは、1人旅をする人たちの年齢が、高くなってきたことに関係するのかも知れない。

 かつては貧乏旅行というと、学生や無職の人たちが多かった。
彼等は働いてないので、通常の社会人の人間関係が作れなかったように思う。
挨拶をする気があっても、それが口に出せなかったのかも知れない。
しかし時代もすすみ、学生時代に外国を歩いてきた人たちが、社会人になっても、そのまま貧乏旅行を続けているのではないか。
そのため、短い休暇をやりくりする辛さなど、互いの立場が想像できるような旅行者が増えたように感じる。
サパであったMさんと言い、さばけた日本人が多くなってきたのは、とても嬉しい現象である。

 バスは他のホテルをまわって、全部で15人くらいのお客を乗せた。
フランスの中年女性たちが6人、カナダ人3人、チェコ人・オーストラリア人が各1人、国籍不明が2〜4人、それに日本人が3人である。
最後にバスが止まったところには、何とMさんの姿が見える。
何という偶然だろうか。バスを降りて握手。
彼はこれから飛行場に向かうのだという。
今日がハノイ最後の日だと言うことで、これから日本の会社社会に戻るのだ。
立ち話をする時間もなく、バスは出発した。

 バスには、若い男性のガイドさんが乗っており、この男性が素晴らしい語学力で驚かされた。
20才くらいだろうか。まず最初に、
「まず英語、次ぎにフランス語で説明します」
と、英語それも実に流ちょうな英語で言ったのである。

 賢そうな顔をしたこの若い男性は、英語とフランス語を完璧に話した。
この様子だと、ベトナムはロシアとも近いから、ロシア語あたりも喋るかも知れない。
おそらく学生のアルバイトだろうと思うが、日本の外語大の学生も、このくらいには外国語を操るのだろうか。
彼は、初めに今日の予定を説明。
それからいくつかの注意事項、帰りはシン・カフェ止まりで、各ホテルまで送らないとかを伝えて座った。

 2時間くらい走っただろうか。
それまでの国道を外れて、細い道にはいる。
ハノイの近くだから、道は舗装されている。
土産物屋がある広場にバスは止まった。
たちまち物売りが集まってくる。
ほとんど成人女性だが、中には少女もいる。
しかし、この女性たちが強靱な生活力をもっているのが、あとで判るのである。

 ガイドさんに引率されて、とある寺院に案内される。
ここは有名な観光地らしく、ベトナム人の人たちもたくさん来ている。
今日は日曜のせいか、学生も多い。
ハノイから来たという学生たちは実ににぎやかで、恥ずかしそうにではあるが、僕にいろいろと質問してきた。
ベトナム語で何か話しては、どっと笑い転げる。
学生はどこでも同じである。

 その寺院の目の前にある、80メートルほどの小高い丘に登る。
これもコースに入っている。
ところが、これが急な階段である。
すでに陽も高くなっており、みんな汗をかいてふうふう言いながら登っている。
観光客のまわりには、さっきの物売りの女性たちがぴったりと張りつき、両側から扇子で風を送ってくれる。

 もちろん、これはあとで土産物を買わせる作戦のうちなのだが、頂上に着くまで足下に気をつけろとか、頭上に注意とか、とにかく至れり尽くせりのサービスである。
頂上に着けば着いたで、写真を撮る人たちの手伝いをし、岩場に足下のおぼつかない人には手を取ってあげる。
僕にはただ煩いだけのこうしたサービスも、西洋人たちには歓迎されているらしく、1時間近く彼女たちはサービスにこれ努めた。
見晴らしの良い眺めもどこへやら、僕はこの密着サービスにひたすら感心していた。

 さて、バスの近くまで戻ってきました。
彼女たちは当然のこと、自分の土産物売場へと観光客たちを強力に連れていく。
多くの西洋人は、ここでいくらかの土産物を買っている。
僕にも絵はがきを買え、Tシャツを買えと言う。
僕がいらないと言うと、
「さっき買うと言ったじゃないか」
と、少女がものすごい形相なのだ。
「買うなんて言ってない」
と言うと、
「あとでと言った。なぜ、あとでと言っておいて、買わないのか」
「そんなことは言ってない」
「なぜか」
「とにかくいらない」
「見るだけ」
「いや、けっこう」
これが延々と続くのである。

 どこでも外国人を相手に、生きるために必死の人たちを見る。
しかし、ここの彼女たちの真剣さ、必死さは何か質の違うものを感じた。
ただ買えと言うのではない。
まず押し売りに近い密着サービスをする。
観光客は後がどうなるか知っていながら、暑いことや便利なことも手伝って、それに乗るのである。
そして土産物の販売へと続く。
きちんと計算された営業方針である。
何だか、ベトナムの強さを見たような感じだった。

 その後でバスは、ビッグ・ドンへ向かう。
ビッグ・ドンもハノイでは有名な観光地らしい。
ビッグ・ドンは陸のハロン湾と言われ、奇岩の景観が有名なところである。
しかも、そこを竹で編んだ小舟でまわるのである。
日本の水郷のようなところで、水の中から稲が生えており、不思議にきれいな景色である。

 ビッグ・ドンに着くと、昼食になった。テーブルクロスのかかった清潔な食堂に案内される。
他のツアーも来るらしく、たくさんテーブルセッティングがしてある。
鶏、揚げ春巻き、肉野菜炒めなどなど、平均的ベトナム料理だがうまい。
ご飯のお代わりは自由である。
食事代はツアー料金に含まれている。
飲み物は別である。
ビール売りが、冷えた缶ビールを篭に並べて売りに来る。
暑いところで階段登りをしたので、否応なく全員の手がビールに伸びる。
ベトナムでは缶ビールは瓶ビールより高い。
1缶100、000ドン。あー、うまい。

 僕の前に座った、ちょっとゲイのような感じもする上品な男性。
50才くらいのオーストラリア人は、ベトナム語を喋る。
驚いてベトナム語を話す理由を聞いてみると、彼は1970年頃にサイゴンに5年ほどいたのだという。
しかも、今はベトナムの男の子を引き取って一緒に住んでいるらしい。
すでに子供たちは成人したと言っていた。
オーストラリア人とは思えない雰囲気のこの男性は、はじめアメリカ人だと勘違いしたほどオーストラリア訛りがない。
いろいろ聞いてみると、英語の教師をして世界各地をまわったので、訛りがとれたのだという。

 その彼から、犬の肉を食べろと、すすめられた。
ハノイでは犬の肉料理が有名で、大変おいしく、どこでも食べることが出来るという。
ここへ来るまでの街道筋にも、たくさん看板がでいると、教えてくれた。
帰り道に、バスの中からあれが犬料理の店だと教えてくれた。
そう言われてみると、同じ看板がたくさんでている。
ハノイに戻ったら、是非食べてみようと思う。

 食事が終わると、僕たちは2〜3人に別れて、小舟に乗り込んだ。
全長3メートルくらいだろうか。
辛うじて2人が並んで座れる巾がある。
日本人の女性、それにチェコ人の男性、それに僕である。
漕ぎ手が、後ろに2人乗る。
前は中年の女性、後ろはその子供くらいの年齢の男性である。
そして大量の土産物たち!これが帰りになると、猛威を発揮するのだったが。

 この舟は竹を編んだものの上に、漆か何かを塗って仕上げたもので、舟というより大きな葉っぱのような物である。
喫水の浅いボートで、きわめて安定が悪い。座っている限りは何でもないが、誰かが立ち上がると、右に左に大きく揺れる。
しかし、竹製の舟とはユニークな物だ。
内陸部で造られる船としては、木を使うより竹の方が手軽でしかも作りやすいのだろう。
波はないのだから、これで良いのだ。

ビッグ・ドンをいく竹の小舟、2艘が重なっている

 前に座った女性が、卓球のラケットを大きくしたような櫂で漕ぎ、後ろの男性は立っており櫓で漕ぐ。
方向は彼が決めるのだが、前の女性が支配権を握っており、しばしば叱責の声が飛ぶ。
緑色に濁った静かな湖面を滑らかに進む舟は、やがて堰にさしかかる。
堰が設けられたここで水面の高さが違うので、一同は舟を下りて乗り換える。
舟は人力で堰を一またぎし、僕たちはもう一度その舟に乗り込む。

 両側はそびえ立つ奇岩で、中国の桂林のようだと誰かがいう。
ところどころにヤギが小さく見える。
あんな絶壁と思うところを、ヤギは思い出したように時々動く。
向こうの方には、生活している人がいるのだろうか、岩の影に一軒の家が見える。
前方を見ると、10メートルくらいの舟の通り道は、右に左にゆるく曲がりながら岩影に消えている。
両側には、稲が植えられている。
緑の苗というには育った稲、緑のままだが中には穂を持ったものもある。
この稲が直播きではなく、きちんと田植えをしたものだ。
この水の中でどうやって田植えをするのだろうか。

 岩に近づいた舟は、洞窟へと入っていく。
暗い中で向こうの出口のシルエットがみえる。
その中に他の舟が黒く影絵のように映る。
最初は3メートルくらいの高さがあるが、やがて頭がつきそうなくらに低くなる。
天井は全体に滑らかで、鍾乳洞のように垂れ下がる岩がある。
こうした洞窟が3ヶ所くらいあっただろうか。
まだ先はあるのだが、このツアーは30分くらい行ったところが終点で、そこで折り返す。
それからがベトナム人たちの本当の時間が始まるのである。

 大量に持ち込んだ荷物を、ビニール袋から1ずつ取りだし、広げて見せる。
このあたりは刺繍のメッカであるらしく、Tシャツ、テーブルクロス、ハンカチなど、さまざまな物が目の前で薦められる。
これはどうだ、あれはどうだ。
さあ買えと迫ってくる。
何せ小さな舟の上だから、逃げることは出来ない。
手を伸ばせば、全員に届く距離である。
カタコト英語の出来るおばさんは、容赦なく販売の攻撃を加えてくる。
「ノー、サンキュー」
と言っているうちは、舟の中はまだ和やかだった。やがて、
「なぜ、買わない?」
という調子になってくると、僕たちもいささか穏やかではない。
なぜって欲しくないからさと言うのだが、
「ユー ハヴ メニィ マネー」
と執拗に迫ってくる。
幸いなことに、全員が舟の進行方向を向いて座っているので、おばさんは僕たちの後ろから声をかけることになる。
返事をしなくなった外国人の肩を叩いて、おばさんは粘り強く商売に精を出したが、僕たちの舟では誰も買わなかった。
すると、今度はチップをよこせと言い始めた。
「ファイブ・ダラー、チップ」
これが岸へ着くまで、繰り返されたのである。
生活がかかっているとは言え、見上げたバイタリティである。

 岸へ着くと、バスの発車まではまだ時間があった。
チェコ・ソロバキアと僕が口にしたことから、チェコ人と話が始まった。
みんなそう言うが、チェコ・ソロバキアはもうない。
今はチェコ。
みんな間違えるが、僕の国はチェコ共和国だと力説。
そこへ日本人女性が
「あら、チェコ・ソロバキアから来たんですか」
と聞いたので、彼は頭にてをやって、僕に説明しろという。
彼もチェコ共和国が、チェコ・ソロバキアと間違われることには慣れているらしく、淡々としている。
そんな話が和やかに進んでいる中で、彼が
「アジアは貧しい」
と言った。
確かに貧しい部分もあるが、
「21世紀はアジアの世紀だ」
と僕がいうと、
「いや、21世紀はアラブだろう。なぜなら、彼等には宗教があるから」
と応えるではないか。
僕は驚いて、
「神は死んだではないか。狂信的な宗教にとりつかれている限り、近代化は出来ない」
と言ったとたん、彼は僕から離れた。

 その間には日本の近代化の成功や、日本の宗教のありかたに関して話があったのだが、神を信じない人間というのが、いること自体が信じられない。
神を無視する人間は、自分とは違う生き物だという目で、僕を見るのである。
外国に出たときは、ブッティストを自称していた方が、何かと波風が立たないのだが、チェコ人から神を強請されるとは思わなかった。
それ以降、帰りのバスの中でも、彼は僕を何か危険人物を見るような眼で見るだけで、とうとう一度も話しかけてこなかった。

 帰りはシン・カフェ直通なのだが、メトロ・ポールの近くを通ったので、途中で降ろしてもらう。

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