10.山の学校とディエン・ビエン・フー
翌朝は、6時半起床。
中庭に面した食堂で、コーヒーを飲んでいると、ツアンさんが来る。
予定通りモンレイ経由でディエン・ビエン・フーに行くのは、すすめられない。
タンジオまで山道を行く方が景色が良い。
だから、こちらの方が良いと言う。
でも、山道を選ぶとディエン・ビエン・フーには行けないと言う。
どちらを選べというのだ。
タンジオまで山道を行って、そこからディエン・ビエン・フー往復をすればいいじゃないかと言うと、それは出来ないと言う返事。
二者択一しかない様子。
モンレイ、ディエン・ビエン・フー経由でタンジオへ行くと、160キロの行程。
山道経由でタンジオへ行くと100キロ。
タンジオとディエン・ビエン・フーのあいだは80キロあって、それを往復すると160キロになる。
景色のいい山道とディエン・ビエン・フーの両方をとると、260キロ走ることになる。
つまり予定の行程より、100キロも長く走ることになる。
それは最初の金額200ドルの中では無理と言うことなのだ。
しかし、金が不足なのかと言っても、ツアンさんは首を横に振るだけである。
ツアンさんは、ただ二者択一としか言わない。
ディエン・ビエン・フーには未練があったが、ツアンさんの薦めに従って、山道経由タンジオへの道を選択する。
やっと話がまとまり、7時半頃出発。
ライチャウから曲がりくねった山道を登る。
次々に表れる急なカーブに、対向車が来たら! と想像するが、1時間ほど走っても対向車は1台も来ない。
わずかに2・3台のオートバイと、すれ違っただけだった。
石畳のような山道がどこまでも続く。
ベトナムの山の中では、まったくの未舗装ということはない。
どこまで行っても、車1台分の巾で石が敷き詰められており、一見するとよく手入れがされている。
路肩には、必ず1キロ毎に石の標識がたっている。
しかしながら、石畳の表面が平らではなく、小刻みの震動が車へと来るのである。
必然的にスピードは時速20キロと言うことになる。
1時間ほどで登りは終わり、山の頂上部分を走ることになった。
ツアンさんの言うとおり、どこまでも続く山並みが雄大な眺めである。
ベトナムの山波は、日本のそれとまったく同じである。
緑に色つける植物群も、日本の木々と同じように見える。
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山の学校の校庭 |
山のところどころに家が見え、人が畑を耕している。
このあたりに住んでいるのは、タイ人だそうである。
タイに住んでいるタイ人と、何か関係があるらしい。
家が20から30戸位まとまった集落を通過する。
すると、小さな学校があった。
ベトナムの学校は、校庭のむこうに主な校舎があり、その両側にも建物がある。
つまりコの字型に、建物が校庭を取り囲んでおり、左右の建物は教室であったり、先生たちの宿舎であったりする。
校庭の正面には、必ずベトナムの国旗がひるがえっている。
ベトナムの学校はほとんど同じ形をしているので、すぐ学校だと判る。
しかし、この小さな学校は、校庭の向こう正面の建物だけである。
そして、校庭の左には少し離れて、先生たちが住んでいると思われる家が建っていた。
ちょうど休み時間だったらしく、子供たちが校庭を走り回っている。
その様子を写真に撮ろうと車から降りると、子供たちはめざとく僕の姿を見つけ、たちまち僕のまわりに集まってきた。
男の子たちが僕の手や体を触る。
口々に何か言っているが、まったく判らない。
子供たちは見知らぬ外国人に興味津々である。
黒い民族衣装を着た彼等は、その数20人くらいだろうか。
しばらく一緒にいると、彼等は僕を校庭の真ん中へと引っ張っていく。
それではと、彼等にカメラを向けると、いっせいに逃げる。
カメラが珍しいのだろうか。校舎の入り口で、2人の女の人が笑っている。
先生らしい。
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子供に取り囲まれた |
校舎や遠くの景色を撮しているうちに、また子供たちが近づいてきた。
でも、カメラを向けると、また遠ざかろうとする。
笑いながら彼等を見ていると、安心したのだろうか。
カメラを向けても、もう逃げなくなった。
ところが今度は、自分たちを撮せと言っているらしい。
あまりに近すぎるので、もう少し離れてといっても、なかなか離れない。
仕方なしに地面に線を引いて、この線に並んでと言うが、たちまち後ろの子供が覆い被さってくる。
カメラの前はあっと言う間に、子供たちで埋まってしまう。
ここでも眼の悪い子供が何人かいる。
この学校は、教室が3つあるだけで、先生は2人らしい。
その先生は、校庭の隣の二間くらい家に住んでいるらしい。
先生の服装は、シャツにズボンと完全に洋服姿である。
女物のシャツや下着が風にたなびいており、いかにも長閑な学校の風景である。
洋服を着た先生によって、民族衣装の子供たちが、ベトナム政府からの教育を受ける。
日本の近代化も、こうした形で進んできたのだろう。
日本とベトナムの違いは、長かった戦争がベトナムの教壇へと、多くの女性を送り込んだことだろう。
山また山。
100キロの道を6時間かけて走り、2時頃タンジオ着。
ここで昼食となる。
しかし、どうしてもディエン・ビエン・フーに行きたい僕は、昼食後にツアンさんともう一度交渉する。
「ここからディエン・ビエン・フーを往復したい。
ここにもホテルがあるから、ディエン・ビエン・フーから帰ってきたら、今夜はここに泊まる。」
と言うと、ツアンさんは首を横に振るだけである。
しつこく食い下がると、ランドクルーザーは1キロ4、000ドンで、彼は借りているらしいことが判った。
そのため、ディエン・ビン・フー往復すると、160キロも余計に走ることになる。
最初の金額では足が出るから、首が横に振られるのだった。
あと40ドル払うことで、ディエン・ビエン・フー往復交渉が成立した。
ここに1つしかないホテルを予約してから、すぐに出発する。
タンジオとディエン・ビエン・フーのあいだの道は、今までよりもずっと良い。
川に沿って走る道は、交通量も多く、国道6号線である。
対向二車線ながら、さすが幹線道路という感じがする。
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ディエン・ビン・フーの街角にて |
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まわりの山並みは、いくらか低くなった感じである。
水車もある。
ディエン・ビン・フーは、思っていたよりずっと大きな街だった。
街のなかに入ると、道路も対向四車線になり、人やオートバイも多く、車も走っている。
しかも今日、5月6日はディエン・ビエン・フー解放日で、記念式典があったらしく、何となく街が華やいでいる。
45年前の今日、ここディエン・ビン・フーでベトナム軍は、最後のフランス植民地軍を打ち破り、長かった植民地の歴史にやっとキリをつけたのだった。
ベトナム全土に支配の網を作っていたフランスは、次々と追いつめられて、ディエン・ビエン・フーが最後の砦だったのである。
こんな山奥の小さな街の小高い丘を中心に、フランスは約5、000人の軍隊を配置していた。
最後の戦闘の様子が、ジオラマにして博物館に展示してある。
攻撃の様子が豆電球で示されて、その過程が良く判る。
僕はアラモの砦のような小さな陣地を想像していたが、時代がそして国家の規模が違った。
あたりの山々の頂上には、ことごとくフランス軍の陣地がおかれており、あたり一帯をひろい範囲にわたってフランスは占領していた。
それをベトナム軍は、少ない武器ながら人海戦術で打ち破ったのである。
アメリカとの戦争でも話題になった地下道を張りめぐらす戦術は、ここでもすでに使われていた。
第二次世界大戦後とはいえ、45年前と言えば、戦争がまだ古典的に闘われていた時代である。
もちろん飛行機は使われていたが、アメリカとの戦争でも判ったように、アジアの山奥では歩兵戦が主だ。
フランスという国家は、植民地ベトナムから膨大な利益を上げただろうが、ここで闘った個々のフランス人はどんな気持ちだったろうか。
敵の圧倒的な人数を前にして、1人1人のフランス人たちは何を思い、何のために闘ったのだろうか。
指揮官たちは別としても、ここに派遣された一般の兵士たちは、フランスの庶民だったはずである。
独立戦争を闘うベトナム人とは、その動機においてまったく違ったものを持っていたに違いない。
ジオラマを見ながら、ベトナムの勝利に感動すると同時に、敗れるべくして敗れていった個々のフランス人たちの気持ちを、僕は想像せずにはいられなかった。
記念日のディエン・ビエン・フーでは、パトカーに先導された車の列が走り回り、政府の偉い人たちが来ていると言った雰囲気だった。
独立記念博物館のまえでは、いかにも町から来た裕福そうな人たちが記念撮影に興じており、なかには軍服を着た偉い人もいた。
平服だったから判らないが、中には政府の役人も多く交じっているのだろう。
ベトナム戦争からもすでに20年以上もたったので、全員が恰幅の良い姿である。
しかも、その中には女性や少数民族の姿はない。
ベトナムでは女性がよく働く。
おそらく戦争では、女性もおおいに闘ったに違いない。
しかし、平時になると要職はすべて男性によって占められてしまう。
もちろん、小柄な少数民族が登庸されることはない。
男性の主流派が、フランス軍に代わって支配しているのである。
20世紀におけるベトナムの歴史は戦争の連続であり、一度も勝てずに負け続けたフランスとは対照的に、その闘いのすべてに勝利してきた。
戦争には勝ち続けたベトナムだが、勝利の美酒を庶民は飲むことがない。
とりわけハノイの北は、文明開化以前の生活をおくっている人がたくさんいる。
戦争をする能力と、庶民を裕福にさせる能力とは、まったく違うもののようだ。
戦争では敵を打ち破るというはっきりとした目的がある。
そのためには無駄を省き、国の力を集中させることが不可欠である。
個人個人の願望が後方へ追いやられることになる。
国の独立のためには、個人が犠牲になるのはやむを得ないと考えられる。
しかし、平時は違う。
庶民を裕福にさせることは、国家の最大目標である。
にもかかわらず、どうやって裕福にさせるかは、決まった処方箋があるわけではない。
勝利までと我慢した人たちも、口々に要求をだすに違いない。
そうした身勝手とも思える願望こそが、結果として国を富ませ庶民の生活を豊かにするのだが、庶民の願望に秩序を与え実現していく能力を持つ政治家はなかなか育たない。
ディエン・ビエン・フーに来て良かった。
タンジオへの帰り道はすでに陽が落ちて、車の外は真っ暗である。
街灯がない田舎では本当に真っ暗で、蛍がきれいである。
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