団塊男、ベトナムを行く    ハノイの北は  
1999.6.記
1.ハノイ到着 2.ハノイの旧市街 3.ハノイの街並み 4.ハノイ郊外
5.サパへ .サパの蝶々夫人 7.ラオチャイとカットカット .ソンラーへ
9.ランクルの旅へ 10.ディエン・ビエン・フーへ 11.マイチャウから 12.チュア・タイ寺院
13.観光地ビック・ドン 14.ホテル:メトロ・ポール 15.さようなら


8.ソンラーへ 

   

 ロシア製のジープが、翌朝7時に宿に迎えに来た。
そばにはダンチュンの若者もいる。
夕べは夜中の3時頃、雷をともなった激しい雨が降ったので、今日の天気が心配だった。
雨の名残か、あたりの山には霧がかかり、何となく湿った空気である。
しかし、すでに雨は上がっていた。

 ジープには、すでに2人の女性が乗っていた。
フランス人の女性はバレエの教師で、日本の宝塚の近くで教えていたこともあり、日本について良く知っていた。
日本文学にも明るく、川端康成が好きだと言っていた。
谷崎はどうだと言ったら、やはり好きだという。

 ジャポニズムかなとも思ったが、なかなか日本の芸術にも詳しくて、日本人のこちらがたじたじとなるほどだった。
現代日本文学を紹介しろと言うから、吉本ばななは翻訳されているはずだから、僕の好きな「キッチン」を薦めた。
彼女は今サイゴンでバレエを教えているという。
もう1人のアイルランド女性は、写真家だとか。
北京を振り出しに、3ヶ月の旅行中だそうである。

 Mさんと僕が、ジープに乗り込む。
Mさんが僕に助手席を譲ってくれた。
運転手の後ろにアイルランド女性、真ん中にフランス女性、僕の後ろがMさんである。
ジープは、観光客である僕たち4人と、運転手それにガイドの若者、合計6人の人間を乗せてソンラーへと出発した。
街を抜けると、まずラオカイへと向かう。
フランス女性がみんなに気を使っていろいろと話しかけてくれる。
ここでも言葉は英語である。
Mさんと僕は、カタコトの英語を駆使して、何とか会話を細々とつなげる。

 ラオカイを抜けると、中国との国境に沿って北東の方へと向かう。
道の両側には、ところどころ家が見える。
思い出したように商店が表れる。
商店といっても大きなものではなく、畳一畳くらいの店である。
そこに石鹸や食品などを並べている。
ときどき、ビリヤードのテーブルが見える。

 Mさんによると、ベトナムに近い中国ではビリヤードが大流行だったという。
ここは左手の川を渡れば、もう中国領である。
川幅は10メートルもない。10年前に中国軍が攻めてきたときは、さぞ恐かっただろう。
そんな話をしながら、ジープは進む。

 舗装されていた道がだんだん細くなり、車が走る一車線分だけが舗装され、それもやがて怪しくなる。
時折、道ばたに見えていた家も途絶え、ジープは山の中へと入っていった。
この先に人が住んでいるのかと不安になる。
右手には山肌が迫り、ゴツゴツした岩を露出させているのが見える。
すでに道は未舗装で、ジープは小刻みに震動し、何度も大きく上下する。
時速10キロくらいで、のろのろと進む。
誰も喋らず、しっかりと体を突っ張っている。
落石のあともある。

 道が大きく左に曲がる。
そこには小さな家があり、ミネラルウォーターなどが並んでいるので、商店のようだ。
原色の衣装を付けた子供たちが10人ほどいる。
目の悪い子供が眼にはいる。
そこで休憩。
このあたりに住む人たちは、その衣装から花モン人と呼ばれ、極彩色の美しい姿である。
ただし女性のみで、男性は普通の洋服姿。
どうやってこうした色彩感覚が養われたのか不思議に思うほど、様々な色使いで、本当に絵になる人たちである。
その後ろには彼女たちの棲む家が見える。
傾斜した畑には、4・5人の人たちが働いている。

ソンラーの集落
マーケットで刃物を売る人

 この休憩地を過ぎると、道はますます狭く、でこぼこもひどくなってきた。
時折、荷物を満載したオートバイとすれ違う。
もちろん2人乗りで、後ろの人が大量の荷物を支えている。
おそらく市で買ったものであろう。
サパを出発して3時間、やっとソンラーが見えた。

 南に開けた広場に、小型の馬がたくさん繋がれている。
小川を挟んでその向こうには、ヤシの葉っぱで葺かれた小屋が軒を並べている。
その南側には、道が走っている。
たくさんの人が、動いているのが見えた。
ジープが近づくに連れて、花モン人だけではなく、黒衣の人たちも見える。
何だか華やいだ雰囲気である。

 ソンラー到着。
たちまち人に取り囲まれる。
しかし、物売りやバイクタクシーの運転手ではない。
我々が珍しいのだ。
こんな山の中まで来る外国人は、そうめったにいないだろうし、だいたい車が珍しいようだ。
僕たちが車から降りても、男たちが車のまわりにたむろし、さかんに眺めている。
乗ってみたくて仕方ないようだ。
その希望はあとでかなえられる。
このツアーの帰りはボートで川を下り、途中でジープに拾って貰うのである。
ジープは試乗の男たちを満載して、僕たちより先に出発した。

 サパ周辺の村落が、観光客になれているのに対して、ここの人たちはとてもシャイである。
大人たちは好奇心と不信感の入り交じった眼差しで僕たちを見る。
それでも笑い掛けると、警戒心を解いてくれる。
微笑みとは何と雄弁なのだろう。
子供たちは好奇心の固まりだ。
すぐさま僕らのまわりに集まってくる。
持ち物、仕草、なんでも珍しくて仕方ない。
たちまち仲良くなる。

 体にぴったりとした黒い上着に、黒いズボンの女性たちがいる。
黒い上着の襟から、白地に細い縞の入ったワイシャツの襟をだしている。
頭には黄緑やオレンジのターバンのようなものを巻いて、その姿はとてもシックである。
このままヴォーグにのせても良いくらいである。
花モン人たちが重ね着をして、ゆったりと見えるのに対して、この人たちはとてもスリムで、セクシーですらある。

ブラックを着こなすセクシィーレディたち

 どこの少数民族もそうだが、民族衣装を着ているのは決まって女性である。
モン人は男女ともに民族衣装だが、花モン人やこの黒衣の人たちは、女性だけが民族衣装である。
どこでも、まず男性が民族衣装をやめ、洋服へと衣替えをする。
日本でも女性のほうが、おそくまで和服を着ていたように思う。
インドでもそうだった。
男性の方が保守的で、生活習慣を変えないものだが、これには何か理由があるのだろうか。

 市を歩き回る。
ふいごを動かしクワを鍛える鍛冶屋、パイナップルを売る店、何だか判らないが粉を売る女性、乾電池、釘、粉石鹸、サンダル、鞄などの中国製品を売る店もある。
ヤシの葉っぱで葺かれた屋根の下を、市の奥へと入っていく。
そのあたりは食堂である。
ほとんど地面に近い低いテーブルの両側には、男たちが陣取って酒を酌み交わしている。

 ガイドの若者が、さかんに手を振っている。
僕もその中にはいる。
ジョがでてくる。くいっとひと飲み。
すぐさま2杯目が注がれる。
言葉はまったく判らないが、ガイドの若者が英語になおしてくれる。

花モンの女性


「どこから来た」
「名前は何という」
「家族は何人いる」
僕は2人の奥さんと10人の子供と答えた。

 しかし、冗談だとすぐに見抜かれた。
それがもとで笑い声がひときわ高くなり、さかんにジョを進められる。
遠来の客や珍客には、腰が抜けるほど、しこたま酒を飲ませる。
酒をたくさん飲ませることが歓迎のしるしなのだ。
昔は日本でも、こうだったように思う。
まして今日は週に一度の市の日なのだ。
フランス女性はピクニックと言っていたが、市には華やいだ空気がみなぎっている。
酒を勧めるわけだ。
料金を聞くと、接待だと言って、お金を取らなかった。

子豚をさばく女性

 隣の屋根の下では、花モン人の女性が子豚をゆでている。
腹を開いて内蔵をだした、全長50センチくらいの子豚を鍋から引き上げる。
ロウのような白い肌の子豚は、そのまままな板の上に置かれる。
たちまち、ばらされていく。
豚肉を薄く切って、ニュクマムをつけて食べる。
酒の肴にはちょうど良い。

 市の中を歩く。
足下に気をつけないと危ない。
赤土で滑るし、時として牛の糞がある。
道ばたに花モン人の老女が、妙な格好で立っている。
見るとはなしに見ていると、彼女の足下に水たまりが出来た。
彼女は立ち小便をしたのだ。
まったく平然として、また歩き出した。
誰もそれに注目する者はいない。
それから気をつけていると、立ち小便をする女性はあちこちにいる。
パンツきをつけていないだろう彼女たちは、簡単に立ち小便が出来るのだ。

 日本でも、かつてはそうだった。
今の女性たちはパンツをはくので、立ち小便が出来ないが、日本の女性たちも立ち小便をしたのだ。
女性がパンツをはくのは、西洋でも18世紀頃からと言われているので、昔は西洋の女性たちも立ち小便をしたことだろう。
どこでも農耕社会に生きる女性たちは、立ったまま排泄することが出来るのだ。
女性にしゃがんで排泄させるようになったのも、近代が仕組んだことだ。

 Mさんが呼びに来た。
ちょっと来いと言うから付いていくと、彼は親切な一家につかまって、ジョの接待攻勢を受けているという。
彼はすでに赤い顔をしている。
その家にはいると、大歓迎の声。
たちまちジョがでる。
2・3杯飲んだところで、僕は退散する。
とてもこの接待攻勢にはついていけない。
外にでると、アイルランド女性と会った。
彼女に中に入るように薦める。
女性が入ってきたので、室内は今までにも増して大歓声である。
見知らぬ外国人を交えた酒盛りが延々と続く。
火曜日だけ開かれる市に、旅行の日程をあわせてくる観光客も少ないだろうから、ここはしばらく秘境として残るだろう。

 ソンラーには3時間ほどいた。
ここから途中までボートで川を下って帰る。
子供たちに手を振られて、ボートは岸を離れる。
金属で出来た、全長7メートルほどのエンジン付きのボートである。
すっかり出来上がったMさん、それにガイドの若者。
Mさんはさかんに女性たちから冷やかされる。
西洋人たちは、人前で酔っぱらうことを下品なことと考えているから、酔っぱらいには手厳しい。
それでも陽気なMさんやガイドの若者は、僕たちに笑いの種を提供してくれる。

 川底が浅いらしく、何度か船底をすった。
船頭さんはその度に、舵と一体化したエンジンを大きく動かす。
1時間くらいすると、誰ともなくトイレという声が上がった。
男性はこれで良いと、フランス女性が空き缶を差し出す。
大爆笑。
そのとき、ちょうど良く終点に着いた。
舟から降りるのももどかしく、女性たちは草むらへ男性は離れた場所へと、全員が四方に散らばっていく。

 船着場から土手を上り、田圃のあいだを歩き始める。
小さな村落へはいる。30戸くらいだろうか。
その中の一軒に案内される。
桁方向の間口20メートル、妻行き10メートルくらいの大きな家である。
二階建てで、一階は土間、二階は竹を敷きつめている。
いずれも間仕切りはない。
太い柱の真ん中に貫を通したつくりで、壁は竹だったり板だったりする。
筋違はない。
他の家では、竹を組んだものの上に、土を塗りつけた小舞い壁も見かける。

 一階は居間と食堂と言ったところだろうか。
かまどがある。
二階は寝室になるらしいが、寝具は片付けられており、白い蚊帳だけが吊られていた。
天井がなく、矢切からは空が見える。
トイレは外、風呂はない。
家畜は別棟に飼っているので、激しい臭いはしない。
この家に寄るのは、ツアーのコースに入っているらしい。

水車が現役の動力である

 この家の人たちは10人家族で、おじいさんとおばあさん、それに若夫婦、おばさんが一人、子供が5人である。
お茶をだしてくれる。
おじいさんは投網に修理に余念がない。
この家の人たちは、全員がすでに洋服になっている。
庭には洗濯物が干してあり、その中には女物のパンツも堂々と干してある。
青鼻を垂らした子供たちが、竹馬を持ち出してきた。
完全に竹製で、竹の柱に竹の踏み棒。
それを固定するもの竹である。
釘や針金など、まったく使っていないことに感心する。

 大勢の家族、地面の上に繰り広げられる日々、家のまわりに広がる水田、日本もつい最近までは、こうした生活をしてきた。
ほんの50年までは、現在のベトナムと同じだったのだ。
それが近代化という波が押し寄せたとたん、日本の生活は変わってしまった。
日本が近代化したから裕福になり、だから僕のような庶民までが、ベトナムまで観光旅行に来ることが出来るのだけれど、何だか懐かしい空気である。

 しかし、こうした生活に戻りたいかと聞かれれば、ノーとしか答えられない。
懐かしくはあっても、決して憧れる生活ではない。
地面に近ければ近いほど、生活は不潔にならざるを得ず、自然からの拘束をより強く受けざるを得ない。
平和に暮らしている人たちが羨ましくもあるし、懐かしいし、ほっとするのも事実である。
でも僕には、ここでの生活はもうできない。

 農耕社会の農耕生活は、工業社会となった日本の農耕生活とはまったく違う。
今の日本には、農家であっても電気はきているし、水道もある。
もちろん電話もあるだろう。
そして、トイレは水洗になっているし、冷蔵庫もあるだろう。
こうした文明の力を物質的なものとして蔑み、精神的な生活こそ大切なのだという声を聞くが、農耕社会の農耕生活は厳しい。

 文明の力がないところでは、すべてを人力でこなさなければならず、それこそ身を粉にして働かなければならない。
それでも、自然の力は容赦なく人間を襲い、怪我・病気など容赦なく人間の命を奪っていく。
ここベトナムでも、山間部に生活する人には眼病を患った人が多い。

 日本で生まれた子供は、ほぼ全員が天寿を全うする。
しかし、農耕社会の農耕生活では違う。
生まれた子供の半分は、成人できないのである。
2人のうち1人は、20歳を迎えることなく死んでしまう。
非衛生的な生活環境、劣悪な栄養事情、医薬品の不足などが、自然の横暴を止められない。

 栄養状態が飛躍的に向上した今の日本では、酷いあかぎれや耳垂れの子供はいないし、青鼻を垂らした子供もいない。
しかし、農耕社会では、青鼻を垂らした子供たちが大勢いる。
これでは病気に対する抵抗力が低いのも当然である。
恵みのもとでもある自然の神は、抵抗力の低い子供を容赦なく天国へと連れていく。

 第三世界を旅行するとき、穏やかな微笑み、優しい対応、平和な雰囲気などには、誰でも注目する。
そして、何か癒されたような気分になる。
それはおそらく僕たちの先祖が、こうした生活をしてきたからだろう。
しかし、通り過ぎる旅行者が見落とすものもあるのだ。
それは平和な雰囲気のしたに隠された、自然との壮絶な日々の闘いがあるという事実だ。
ここベトナムでも、生活の主導権は人間にあるのではない。
人々は自然の力に、ゆっくりと生かされている。

 懐かしさとともに複雑な心境を残して、この村をあとにした。
子供たちが付いてくる。
田圃のあいだを歩くと、墓地が見える。
白いお墓が二基ずつ並んでいる。
すでに苗が50センチくらいに育っており、一面の田圃はこの村に豊かな実りをもたらしてくれそうである。
あぜ道が広くなった。

 道路の下に小さな学校が見える。
学校、これも近代の産物だが、ベトナムはどんな山の中に行っても学校がある。
黒板だけの質素な教室だが、明日のベトナムを支える子供が、ここで統一ベトナムの教育を受けている。
山間部に住む少数民族は、いずれベトナムの主流であるキン人に飲み込まれていくだろう。
今でも東南アジアではベトナムは強国だが、その時には近代的な強国になるに違いない。

 道が登りにさしかかり、舗装道路が近いことを知らせる。
広場にはジープが待っていた。
見送りの子供たちと別れ、ジープが走り始める。
どう先回りしたのか、途中でボートの船頭さんを拾う。
彼はしゃれた背広を着ており、サパのカラオケに遊びに行くのだそうだ。
カラオケはベトナム中にある。
ラオカイの駅でフランス女性を降ろす。
彼女は今夜の夜行でハノイに帰るのだ。
全員、ジープから降りて握手。

 サパに向かう前、ラオカイの町中で小休止。
ビア・ホイを飲む。
ほんの少しアルコールが入った生ビールである。
それから1時間のドライブ、サパには6時少し過ぎに着いた。
明日からの行動のために、情報収集をかねて食事をしにダンチュンへ行く。
デイエン・ビイエン・フー経由ハノイ行きのツアーが、昨日の旅行代理店では245ドルと言われたが、ここでは200ドルだという。
とうとう誰も同行者を見つけられず、1人で行くことになった。
車をチャーターすることは、功罪相半ばである。
それを後でおおいに痛感させられる。

広告

9.ランクルの旅へ、へ