ロシア製のジープが、翌朝7時に宿に迎えに来た。
そばにはダンチュンの若者もいる。
夕べは夜中の3時頃、雷をともなった激しい雨が降ったので、今日の天気が心配だった。
雨の名残か、あたりの山には霧がかかり、何となく湿った空気である。
しかし、すでに雨は上がっていた。
ジープには、すでに2人の女性が乗っていた。
フランス人の女性はバレエの教師で、日本の宝塚の近くで教えていたこともあり、日本について良く知っていた。
日本文学にも明るく、川端康成が好きだと言っていた。
谷崎はどうだと言ったら、やはり好きだという。
ジャポニズムかなとも思ったが、なかなか日本の芸術にも詳しくて、日本人のこちらがたじたじとなるほどだった。
現代日本文学を紹介しろと言うから、吉本ばななは翻訳されているはずだから、僕の好きな「キッチン」を薦めた。
彼女は今サイゴンでバレエを教えているという。
もう1人のアイルランド女性は、写真家だとか。
北京を振り出しに、3ヶ月の旅行中だそうである。
Mさんと僕が、ジープに乗り込む。
Mさんが僕に助手席を譲ってくれた。
運転手の後ろにアイルランド女性、真ん中にフランス女性、僕の後ろがMさんである。
ジープは、観光客である僕たち4人と、運転手それにガイドの若者、合計6人の人間を乗せてソンラーへと出発した。
街を抜けると、まずラオカイへと向かう。
フランス女性がみんなに気を使っていろいろと話しかけてくれる。
ここでも言葉は英語である。
Mさんと僕は、カタコトの英語を駆使して、何とか会話を細々とつなげる。
ラオカイを抜けると、中国との国境に沿って北東の方へと向かう。
道の両側には、ところどころ家が見える。
思い出したように商店が表れる。
商店といっても大きなものではなく、畳一畳くらいの店である。
そこに石鹸や食品などを並べている。
ときどき、ビリヤードのテーブルが見える。
Mさんによると、ベトナムに近い中国ではビリヤードが大流行だったという。
ここは左手の川を渡れば、もう中国領である。
川幅は10メートルもない。10年前に中国軍が攻めてきたときは、さぞ恐かっただろう。
そんな話をしながら、ジープは進む。
舗装されていた道がだんだん細くなり、車が走る一車線分だけが舗装され、それもやがて怪しくなる。
時折、道ばたに見えていた家も途絶え、ジープは山の中へと入っていった。
この先に人が住んでいるのかと不安になる。
右手には山肌が迫り、ゴツゴツした岩を露出させているのが見える。
すでに道は未舗装で、ジープは小刻みに震動し、何度も大きく上下する。
時速10キロくらいで、のろのろと進む。
誰も喋らず、しっかりと体を突っ張っている。
落石のあともある。
道が大きく左に曲がる。
そこには小さな家があり、ミネラルウォーターなどが並んでいるので、商店のようだ。
原色の衣装を付けた子供たちが10人ほどいる。
目の悪い子供が眼にはいる。
そこで休憩。
このあたりに住む人たちは、その衣装から花モン人と呼ばれ、極彩色の美しい姿である。
ただし女性のみで、男性は普通の洋服姿。
どうやってこうした色彩感覚が養われたのか不思議に思うほど、様々な色使いで、本当に絵になる人たちである。
その後ろには彼女たちの棲む家が見える。
傾斜した畑には、4・5人の人たちが働いている。
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ソンラーの集落 |
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マーケットで刃物を売る人 |
この休憩地を過ぎると、道はますます狭く、でこぼこもひどくなってきた。
時折、荷物を満載したオートバイとすれ違う。
もちろん2人乗りで、後ろの人が大量の荷物を支えている。
おそらく市で買ったものであろう。
サパを出発して3時間、やっとソンラーが見えた。
南に開けた広場に、小型の馬がたくさん繋がれている。
小川を挟んでその向こうには、ヤシの葉っぱで葺かれた小屋が軒を並べている。
その南側には、道が走っている。
たくさんの人が、動いているのが見えた。
ジープが近づくに連れて、花モン人だけではなく、黒衣の人たちも見える。
何だか華やいだ雰囲気である。
ソンラー到着。
たちまち人に取り囲まれる。
しかし、物売りやバイクタクシーの運転手ではない。
我々が珍しいのだ。
こんな山の中まで来る外国人は、そうめったにいないだろうし、だいたい車が珍しいようだ。
僕たちが車から降りても、男たちが車のまわりにたむろし、さかんに眺めている。
乗ってみたくて仕方ないようだ。
その希望はあとでかなえられる。
このツアーの帰りはボートで川を下り、途中でジープに拾って貰うのである。
ジープは試乗の男たちを満載して、僕たちより先に出発した。
サパ周辺の村落が、観光客になれているのに対して、ここの人たちはとてもシャイである。
大人たちは好奇心と不信感の入り交じった眼差しで僕たちを見る。
それでも笑い掛けると、警戒心を解いてくれる。
微笑みとは何と雄弁なのだろう。
子供たちは好奇心の固まりだ。
すぐさま僕らのまわりに集まってくる。
持ち物、仕草、なんでも珍しくて仕方ない。
たちまち仲良くなる。
体にぴったりとした黒い上着に、黒いズボンの女性たちがいる。
黒い上着の襟から、白地に細い縞の入ったワイシャツの襟をだしている。
頭には黄緑やオレンジのターバンのようなものを巻いて、その姿はとてもシックである。
このままヴォーグにのせても良いくらいである。
花モン人たちが重ね着をして、ゆったりと見えるのに対して、この人たちはとてもスリムで、セクシーですらある。
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ブラックを着こなすセクシィーレディたち |
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どこの少数民族もそうだが、民族衣装を着ているのは決まって女性である。
モン人は男女ともに民族衣装だが、花モン人やこの黒衣の人たちは、女性だけが民族衣装である。
どこでも、まず男性が民族衣装をやめ、洋服へと衣替えをする。
日本でも女性のほうが、おそくまで和服を着ていたように思う。
インドでもそうだった。
男性の方が保守的で、生活習慣を変えないものだが、これには何か理由があるのだろうか。
市を歩き回る。
ふいごを動かしクワを鍛える鍛冶屋、パイナップルを売る店、何だか判らないが粉を売る女性、乾電池、釘、粉石鹸、サンダル、鞄などの中国製品を売る店もある。
ヤシの葉っぱで葺かれた屋根の下を、市の奥へと入っていく。
そのあたりは食堂である。
ほとんど地面に近い低いテーブルの両側には、男たちが陣取って酒を酌み交わしている。
ガイドの若者が、さかんに手を振っている。
僕もその中にはいる。
ジョがでてくる。くいっとひと飲み。
すぐさま2杯目が注がれる。
言葉はまったく判らないが、ガイドの若者が英語になおしてくれる。
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花モンの女性 |
「どこから来た」
「名前は何という」
「家族は何人いる」
僕は2人の奥さんと10人の子供と答えた。
しかし、冗談だとすぐに見抜かれた。
それがもとで笑い声がひときわ高くなり、さかんにジョを進められる。
遠来の客や珍客には、腰が抜けるほど、しこたま酒を飲ませる。
酒をたくさん飲ませることが歓迎のしるしなのだ。
昔は日本でも、こうだったように思う。
まして今日は週に一度の市の日なのだ。
フランス女性はピクニックと言っていたが、市には華やいだ空気がみなぎっている。
酒を勧めるわけだ。
料金を聞くと、接待だと言って、お金を取らなかった。
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子豚をさばく女性 |
隣の屋根の下では、花モン人の女性が子豚をゆでている。
腹を開いて内蔵をだした、全長50センチくらいの子豚を鍋から引き上げる。
ロウのような白い肌の子豚は、そのまままな板の上に置かれる。
たちまち、ばらされていく。
豚肉を薄く切って、ニュクマムをつけて食べる。
酒の肴にはちょうど良い。
市の中を歩く。
足下に気をつけないと危ない。
赤土で滑るし、時として牛の糞がある。
道ばたに花モン人の老女が、妙な格好で立っている。
見るとはなしに見ていると、彼女の足下に水たまりが出来た。
彼女は立ち小便をしたのだ。
まったく平然として、また歩き出した。
誰もそれに注目する者はいない。
それから気をつけていると、立ち小便をする女性はあちこちにいる。
パンツきをつけていないだろう彼女たちは、簡単に立ち小便が出来るのだ。
日本でも、かつてはそうだった。
今の女性たちはパンツをはくので、立ち小便が出来ないが、日本の女性たちも立ち小便をしたのだ。
女性がパンツをはくのは、西洋でも18世紀頃からと言われているので、昔は西洋の女性たちも立ち小便をしたことだろう。
どこでも農耕社会に生きる女性たちは、立ったまま排泄することが出来るのだ。
女性にしゃがんで排泄させるようになったのも、近代が仕組んだことだ。
Mさんが呼びに来た。
ちょっと来いと言うから付いていくと、彼は親切な一家につかまって、ジョの接待攻勢を受けているという。
彼はすでに赤い顔をしている。
その家にはいると、大歓迎の声。
たちまちジョがでる。
2・3杯飲んだところで、僕は退散する。
とてもこの接待攻勢にはついていけない。
外にでると、アイルランド女性と会った。
彼女に中に入るように薦める。
女性が入ってきたので、室内は今までにも増して大歓声である。
見知らぬ外国人を交えた酒盛りが延々と続く。
火曜日だけ開かれる市に、旅行の日程をあわせてくる観光客も少ないだろうから、ここはしばらく秘境として残るだろう。
ソンラーには3時間ほどいた。
ここから途中までボートで川を下って帰る。
子供たちに手を振られて、ボートは岸を離れる。
金属で出来た、全長7メートルほどのエンジン付きのボートである。
すっかり出来上がったMさん、それにガイドの若者。
Mさんはさかんに女性たちから冷やかされる。
西洋人たちは、人前で酔っぱらうことを下品なことと考えているから、酔っぱらいには手厳しい。
それでも陽気なMさんやガイドの若者は、僕たちに笑いの種を提供してくれる。
川底が浅いらしく、何度か船底をすった。
船頭さんはその度に、舵と一体化したエンジンを大きく動かす。
1時間くらいすると、誰ともなくトイレという声が上がった。
男性はこれで良いと、フランス女性が空き缶を差し出す。
大爆笑。
そのとき、ちょうど良く終点に着いた。
舟から降りるのももどかしく、女性たちは草むらへ男性は離れた場所へと、全員が四方に散らばっていく。
船着場から土手を上り、田圃のあいだを歩き始める。
小さな村落へはいる。30戸くらいだろうか。
その中の一軒に案内される。
桁方向の間口20メートル、妻行き10メートルくらいの大きな家である。
二階建てで、一階は土間、二階は竹を敷きつめている。
いずれも間仕切りはない。
太い柱の真ん中に貫を通したつくりで、壁は竹だったり板だったりする。
筋違はない。
他の家では、竹を組んだものの上に、土を塗りつけた小舞い壁も見かける。
一階は居間と食堂と言ったところだろうか。
かまどがある。
二階は寝室になるらしいが、寝具は片付けられており、白い蚊帳だけが吊られていた。
天井がなく、矢切からは空が見える。
トイレは外、風呂はない。
家畜は別棟に飼っているので、激しい臭いはしない。
この家に寄るのは、ツアーのコースに入っているらしい。
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水車が現役の動力である |
この家の人たちは10人家族で、おじいさんとおばあさん、それに若夫婦、おばさんが一人、子供が5人である。
お茶をだしてくれる。
おじいさんは投網に修理に余念がない。
この家の人たちは、全員がすでに洋服になっている。
庭には洗濯物が干してあり、その中には女物のパンツも堂々と干してある。
青鼻を垂らした子供たちが、竹馬を持ち出してきた。
完全に竹製で、竹の柱に竹の踏み棒。
それを固定するもの竹である。
釘や針金など、まったく使っていないことに感心する。
大勢の家族、地面の上に繰り広げられる日々、家のまわりに広がる水田、日本もつい最近までは、こうした生活をしてきた。
ほんの50年までは、現在のベトナムと同じだったのだ。
それが近代化という波が押し寄せたとたん、日本の生活は変わってしまった。
日本が近代化したから裕福になり、だから僕のような庶民までが、ベトナムまで観光旅行に来ることが出来るのだけれど、何だか懐かしい空気である。
しかし、こうした生活に戻りたいかと聞かれれば、ノーとしか答えられない。
懐かしくはあっても、決して憧れる生活ではない。
地面に近ければ近いほど、生活は不潔にならざるを得ず、自然からの拘束をより強く受けざるを得ない。
平和に暮らしている人たちが羨ましくもあるし、懐かしいし、ほっとするのも事実である。
でも僕には、ここでの生活はもうできない。
農耕社会の農耕生活は、工業社会となった日本の農耕生活とはまったく違う。
今の日本には、農家であっても電気はきているし、水道もある。
もちろん電話もあるだろう。
そして、トイレは水洗になっているし、冷蔵庫もあるだろう。
こうした文明の力を物質的なものとして蔑み、精神的な生活こそ大切なのだという声を聞くが、農耕社会の農耕生活は厳しい。
文明の力がないところでは、すべてを人力でこなさなければならず、それこそ身を粉にして働かなければならない。
それでも、自然の力は容赦なく人間を襲い、怪我・病気など容赦なく人間の命を奪っていく。
ここベトナムでも、山間部に生活する人には眼病を患った人が多い。
日本で生まれた子供は、ほぼ全員が天寿を全うする。
しかし、農耕社会の農耕生活では違う。
生まれた子供の半分は、成人できないのである。
2人のうち1人は、20歳を迎えることなく死んでしまう。
非衛生的な生活環境、劣悪な栄養事情、医薬品の不足などが、自然の横暴を止められない。
栄養状態が飛躍的に向上した今の日本では、酷いあかぎれや耳垂れの子供はいないし、青鼻を垂らした子供もいない。
しかし、農耕社会では、青鼻を垂らした子供たちが大勢いる。
これでは病気に対する抵抗力が低いのも当然である。
恵みのもとでもある自然の神は、抵抗力の低い子供を容赦なく天国へと連れていく。
第三世界を旅行するとき、穏やかな微笑み、優しい対応、平和な雰囲気などには、誰でも注目する。
そして、何か癒されたような気分になる。
それはおそらく僕たちの先祖が、こうした生活をしてきたからだろう。
しかし、通り過ぎる旅行者が見落とすものもあるのだ。
それは平和な雰囲気のしたに隠された、自然との壮絶な日々の闘いがあるという事実だ。
ここベトナムでも、生活の主導権は人間にあるのではない。
人々は自然の力に、ゆっくりと生かされている。
懐かしさとともに複雑な心境を残して、この村をあとにした。
子供たちが付いてくる。
田圃のあいだを歩くと、墓地が見える。
白いお墓が二基ずつ並んでいる。
すでに苗が50センチくらいに育っており、一面の田圃はこの村に豊かな実りをもたらしてくれそうである。
あぜ道が広くなった。
道路の下に小さな学校が見える。
学校、これも近代の産物だが、ベトナムはどんな山の中に行っても学校がある。
黒板だけの質素な教室だが、明日のベトナムを支える子供が、ここで統一ベトナムの教育を受けている。
山間部に住む少数民族は、いずれベトナムの主流であるキン人に飲み込まれていくだろう。
今でも東南アジアではベトナムは強国だが、その時には近代的な強国になるに違いない。
道が登りにさしかかり、舗装道路が近いことを知らせる。
広場にはジープが待っていた。
見送りの子供たちと別れ、ジープが走り始める。
どう先回りしたのか、途中でボートの船頭さんを拾う。
彼はしゃれた背広を着ており、サパのカラオケに遊びに行くのだそうだ。
カラオケはベトナム中にある。
ラオカイの駅でフランス女性を降ろす。
彼女は今夜の夜行でハノイに帰るのだ。
全員、ジープから降りて握手。
サパに向かう前、ラオカイの町中で小休止。
ビア・ホイを飲む。
ほんの少しアルコールが入った生ビールである。
それから1時間のドライブ、サパには6時少し過ぎに着いた。
明日からの行動のために、情報収集をかねて食事をしにダンチュンへ行く。
デイエン・ビイエン・フー経由ハノイ行きのツアーが、昨日の旅行代理店では245ドルと言われたが、ここでは200ドルだという。
とうとう誰も同行者を見つけられず、1人で行くことになった。
車をチャーターすることは、功罪相半ばである。
それを後でおおいに痛感させられる。
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