団塊男、ベトナムを行く    ハノイの北は  
1999.6.記
1.ハノイ到着 2.ハノイの旧市街 3.ハノイの街並み 4.ハノイ郊外
5.サパへ .サパの蝶々夫人 7.ラオチャイとカットカット .ソンラーへ
9.ランクルの旅へ 10.ディエン・ビエン・フーへ 11.マイチャウから 12.チュア・タイ寺院
13.観光地ビック・ドン 14.ホテル:メトロ・ポール 15.さようなら

   

5.サパへ

 僕の乗った列車は、ラオカイ駅に定刻6時半に着いた。
出口へと急ぐ人たちが、我先に走っていく。
出口の向こうには、バイクタクシーや客引きの男たちが群がっている。
改札口の近くでは、制服を着た女性がサパ行きの切符を売っている。
思わずその机に近づき、サパ行きのバスの切符を買ってしまった。
25、000ドンだった。

 人の流れに従って、出口に近づく。
そこでは両側に制服を着た二人の女性が、机の上に仁王立ちなって、切符を回収していた。
慌ててポケットを捜す。
しわくちゃになった切符が指の先に見つかり、ほっとする。
僕はそれを手にもって出口に近づく。
すると突然、僕の目の前の男が声をあらげた。

 机の上に立っている制服の女性は、それよりはるかに大きな声で、その男をなじり始めた。
どうなることかと思って見ていると、制服の女性は机の上から、男の襟首をつかんで引っ張り始めた。
小柄な女性が男と渡り合えるのかと思っていると、その襟首を後ろから制服の男がつかんで列の外へと連れ出した。
どうやら切符をもっていない客、つまり無賃乗車らしい。
2人の男が激しくもみ合いながら、駅舎の方へと動いていった。

 駅の外へ出ると、小雨が降っていた。
バイクタクシーの運転手が押し寄せてきたが、僕がサパ行きの切符をもっているのを見ると誰も近づいてこない。
駅前には大小さまざまなバスが、4・5台ばかり停まっている。
その中に、サパと行き先をだしている白いハイエースのミニバスがある。
その近くに立っている男が、手招きをする。
すでに8人が乗っている。
アジア人が2人、あとは白人である。
僕もそれに乗り込む。
バスは5分もしないうちに出発した。
 

 ラオカイは中国との国境の街で、10年前の中国との戦争ではずいぶんと破壊されたそうだ。
現在では戦争の面影はない。
新しい建物も多く、むしろ中国との貿易でか、街は活気がある。

 街並みを抜けると、バスは山道にさしかかった。
サパは標高1、600メートルの高地にあり、ちょうど日本の軽井沢のような避暑地として開発されたらしい。
もちろん、避暑などという観念は、農耕に生きるベトナム人の生んだものではない。
ベトナムを植民地としていたフランス人が、サイゴンやハノイの夏の暑さを避けるために見つけだしたものだ。

 バカンスとはフランス人の発明のように感じるが、休暇を取るのはフランス人に限らない。
自然の拘束から離れた工業社会の人間は、働く時間とは切り離された休息の時間を生み出した。
それがバカンスである。
それに対して、農耕社会に生きる人間は、自然を相手にした労働であるがゆえに、農繁期や農閑期という言葉が示すように、自然の周期に従った生活から自由にはなれなかった。
だから、ベトナム人にとっては骨休めの休息こそあっても、避暑などという休みは考えつくはずもなかった。
そうした事情は、つい最近まで僕たち日本人もまったく同様だった。

 曲がりくねった道は、中央が一車線分だけ舗装されている。
対向車があるときは、未舗装の路肩に片側の車輪を落として、ぎりぎりですれ違う。
その道を、ハイエースはゆっくりと登っていく。
サパに近づくにつれ、竹の篭を背負った地元のモン人たちを、たくさん見かけるようになる。
彼等は街で見るベトナム人とは違って、小柄で独特の衣装を着ている。
全体に小柄なベトナム人より、彼等はなお小柄である。
サパへ行くのだろうか、バスと同じ方向へ歩いている。

 普通の路線バスも走っているらしく、相当年期の入った中型バスとすれ違う。
行き先はラオカイと出ている。
おそらく地元に人たちは、あちらに乗るのだろう。
ここでも外国人と地元の人の間には、はっきりとした二重規範がある。

 30キロの山道を、ハイエースのバスは1時間で登った。
サパに着く。
たちまち客引きが寄ってくる。
手に手にホテルの名刺をもって、大声で叫んでいる。
まだ午前中だし、街の様子が分かってから、宿決めをしても遅くはない。
僕はしばらく街を歩くことにする。
手を横に振りながら、バスを降りる。
今日は日曜日。
日曜日には市が立つらしく、近くの山間部の村から人が集まってくるのだという。
それでさっきモン人たちが、たくさん道を歩いていたのだ。
見るとあたり近所は、すべて黒衣のモン人ばかり。
ここは市の真ん中だった。

 山の傾斜地に広がるサパの街は、坂が多い。
街の中心を広い通りが、東南の方向へと下っており、その両側には郵便局や食堂・土産物屋が並んでいる。
しわくちゃの紙幣をだして買い物をするモン人、アイスキャンデーを美味しそうにかじっているモン人、土産物屋に物を売ろうとするモン人、観光客に土産を売ろうとするモン人、それを見つめる地元のベトナム人。
道路は人であふれかえっている。
そこへ、オートバイや車が、警笛を鳴らしながら突っ込んでくる。
ここには歩行者天国などない。

 ハノイでも、オートバイや車は警笛を鳴らしながら走った。
日本ではあまり聞かなくなった警笛が、ベトナムではひきりなしに鳴り響く。
それはアジアのどこの国でも同じである。
洋服を着たベトナム人の中では、それほど気にならなかったこの警笛が、ここサパではやけに気になる。
黒衣の民族衣装を着た小柄なモン人の中へと、車という近代が暴力的に入っていく。
車に乗ったベトナム人は、土着のモン人を蹴散らして走る。
土の上に立っているモン人は、車を避けて道ばたに身を寄せる。

 それはベトナム人とモン人という対比ではなく、近代と前近代のせめぎ合いなのだ。
人間の体に密着し、体の大きさに従って出来ていた前近代の社会が、機械に武装された近代に強姦され蹂躙されていく瞬間なのだ。
日本もそうだった。
車が庶民のものとなる前は、車は我が物顔に道路を占拠した。
歩く庶民を警笛で脅し、車は人の中をかき分けて走った。
強い近代文明は、強い人間に乗り移って前近代社会へと浸透していく。

 モン人たちは仕方ないと諦めているが、自分たちの領分へと我が物顔に進入してくる車たちを、快く思っているはずはない。
ベトナム人は車をもっても、彼等モン人には車をもてる可能性はまったくない。
モン人が近代の側に付くことはないのだ。
モン人が土着の文化に生きる限り、彼等は少数民族として衰微せざるを得ない。
僕がここにいるのは、日本が近代社会だからである。
近代の恩恵を受けたからベトナムへと旅行できるのだが、近代文明の暴力性を眼前に見せつけられると言葉がなくなってしまう。
しかし、アイス・キャンデーをかじるときの嬉しそうな顔、モン人たちも一面では近代を歓迎しているのだ。
僕は言葉を失ったまま、写真を撮り続ける他はなかった。

 バスの止まったところへ戻ると、若い日本人から声をかけられた。
「こんにちは、バスで一緒でしたね。宿は決めましたか」
「いや、まだなんです。どこにされました」
「おばちゃんに連れていかれたゲスト・ハウスにしましたよ」
「どうですか?」
「いいですよ。4ドルで、お湯付きです」
「それは安いですね」
「ホテルの人も、いい人たちだし」
「それじゃ、僕もそこにしようかな」
と言って、その場はそれで別れた。

 サパは観光で生計を立てている街らしく、いたるところにホテルがある。
しかし本当の話、安くて静かならどこでも良いのだ。
荷物も置きたいので、彼の言ったソン・ハー・ゲスト・ハウスに行くことにした。
市場を横切って南側に出る。ソン・ハー・ゲスト・ハウスは、角を曲がったすぐの所にあった。
娘さんが応対にでたが、彼女の弟は英語がとても達者だった。
4ドルと言われたが、ドンで払いたいというと、50、000ドンだという。
それを45、000ドンに値切って、交渉成立。
結局ここには3泊することになった。

広告

.サパの蝶々夫人、へ