無 彩 色 




 五代は土手を下り、繁華街のほうへむかった。
明るい光が五代の先に見えてきた。
汚れた狐のような黄色い光が、ブンブンと渦巻いて幾重にも層をなしていた。
明るい光に五代の体がさらされると、紅色の糸は色を失っていった。
人声も何の音もしない、光だけの繁華街であった。
音のない繁華街は、それでも充分に享楽的だった。
五代は歩きつづけ、その光の中へはいった。
五代は鼻歌で歩いていた。
繁華街の粘液的な空気が、五代のまわりで渦をまく。
繁華街は肉色である。
その中から、一つの嬌声が聞えてきた。
肉色をした繁華街の嬌声に、五代は体を同調させた。
頭を下げて、五代は嬌声の中にスルリと入った。

 大きくはない店内には、誰も客がいなかった。
五代はすわると、酒を注文した。
カウンターは、大勢の客がこほした洒液をすって、孔雀色になっていた。
その上には、煙草の焼けこげが、焦茶色のあとを、毛虫の死体のように付けていた。
カウンターのはしは押しつぶされて、木材の繊維がはみだしている。
その向うに店のおやじが、しょう油で汚れた前かけをして立っている。
白髪まじりの不精ひげを、顎いっばいにはやしている。
天井から下った換気フードのまわりには、古くなったほこりが油煙にまじって、厚くねっとりと固着していた。

 「どうしたね、五代さん。何かあったのかね。いつもと様子がちがうよ」

 おやじは、にこにこしてそう言うと、皿のうえに酒の入ったコップをおいて、五代の前にさしだした。
ユラユラとおぼつかない手つきである。
眼の下にたるんだ脂肪が、厚い皺をつくっている。
笑い顔が善良である。

 「風がいいね。今日は」
 五代はそう言うと、ガラス製のコップから酒を飲んだ。
熱く澗された酒は、ツンと鼻にきて、口腔にしみた。
舌のうえに酒液がのる。

 「風がどおしたって」
 「風がいいんだよ」

 「五代さんは時々判らないことを言うからね。風がいいって、どおいうことだね」
 「だから、風がいいんだよ」
 「これだから、偉い人は困る。風って、あのふく風かい、五代さん」
 「ああ、風だよ」


 口にふくんだ酒は、のどをとおり胃袋へとおちた。
ほんのすこしして、下半身から心臓のあたりへと、熱い体液がまわってきた。
それはくるくるまわりながら、内臓のあいだを流れた。
腹腔内の薄い膜がゆれた。
五代は両股のあたりが、ぬれたような気がした。
薄い皮膚をとおして、液体がズボンにしみだした感じがした。
両股をとじた。
むろん、すぐ錯覚だとわかった。
細かい産毛もはえていず、女の内股のように、やわらかくなめらかな、五代の内股の薄い皮膚がひんやりとした。
さっと刷毛でなでられた時のように鳥肌がたった。

 「風に色があるんだ、おやじさん」
 「ますます、判らないことを言うね。五代さんは.風に色があるなんて」
 「…………………」
 「うちの風はどんな色だい」
 「いい色だよ」
 「そおかい、どんな色だね」
 しばらく考えてから、五代は言った。
 「透明な丁字色かな」
 おやじの向うから強い臭いがきた。五代はのびをして、
 「おやじさん、俺にもそれをくれ」
 と言った。
 「あれ、五代さんは嫌いじゃあなかったんでは。今日はどうしたんだね.本当に食べるのかい」
 「ああ、もちろん。いつ俺が嫌いだと言った」
 「いや、そお言ったのは聞いたことはないが、今まで食べたことがないじゃあないか」
 「でも、今日は食べるんだ」
 「本当かい」
 「ああ、本当だとも」
 五代はおやじのさしだした皿を受け取った。
はしをのばした。
小さくした一切を口ヘ運ぼうとした。
その時である。
突然、胃のあたりに手をさしこまれた感じがした。
全身の毛穴が一度に収縮した。背骨が冷めたい。

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