ハーイ ベイビイ
10


10

 鈴木家にリンが登場して、すでに1ヶ月近くが過ぎた。母・和子と鈴木清の任務分担も確定し、毎日が順調に動き出している。
 職場でも、鈴木清が、未婚で子供を持ったと言う噂は一巡し、すでにその話題は鮮度が落ちはじめていた。そんなとき昼休みに、町田直美がたずねてきた。
「鈴木さん、赤ちゃんが出来たんですって」
「うん、名前はリン。女の子。父あり、母なし。祖父母あり」
「きいた、きいた。お母さんのいない子か。お父さんのいない子っていうのは、聞いたことあるけど、お母さんのいない子ってなんて言うんだろう」
「足なし子って言うんだよ」
と、鈴木は言った。
「えー、足がないの」
町田直美はその意味が判らなかった。
「だって、ててなしごっていうだろう」
「なーんだ、冗談か。余裕ね」
「父はつよし。僕は清ですが」
「もうこの話しは、方々で聞かれたでしょうね。だって、未婚の父って、かっこいいもんね」
「それがさ、直美ちゃんみたいに、面と向かって聞いてくる人は、意外に少ないよ」
「あら、図々しかったかな」
「陰でこそこそ言われるより、ずっといいからね。だって、本当は聞いて欲しくて、しかたないんだよ」
「でもさ、鈴木さんが子供を持ってから、女性のあいだでちょっとした、波風が立っているのよ。知ってる」
「どんな」
「男性が独身のままで、子供をもてるってわかっちゃたでしょ。女には、もっと簡単なことだって」
「もちろん」
「だから、旦那はいらないけど、子供は欲しいって子が、マジに考え出したのよ」
「なにを」
「子供だけ産もうって子がいるのよ」
「でも、女性の場合は大変だろ。妊娠するのは女性だから。妊娠中、仕事はどうするんだろう」
「それだって、公務員だよ。私は妊娠していますって、開き直ればいいわけでしょ」
「まあね。僕なんか、残業はしませんって宣言したら、それでとおっちゃたからね」
「腹をくくれば、できるわけよ。いい子になろうとするから、大変なのよ」
「腹がでれば、まわりが引っ込むって言う、言わないか」
「お腹さすりながら、仕事をしていれば、そのうち産休になるでしょ」
「そうだね、女性の場合は産休制度があるからね。やる気になれば、わりと簡単にできるかも知れないね」
「子供は、親がみてくれるから、産休だって、ゆっくり休めるし」
「僕なんか、産休はないからね」
「育児休暇をバッチリとって」
「僕には育児休暇も取りづらいし」
「母子家庭だと保護と援助がてんこもり」
「よく知ってるね、父子家庭には何の保護もないけど、母子家庭には手厚い援助があるんだよ」
「女はか弱いし、稼ぎが少ないから、保護が必要なんです」
そう言って、町田直美は舌をだした。鈴木清もつられて笑った。
「あはは…。今の女性がか弱いって、大ウソ」
鈴木清は、女性がか弱かったら赤ん坊など産めないじゃないか、そう考えていた。
「でも、赤ちゃんてかわいい」
「そりゃ、もちろん。なんせ、夢にまで見たからね」
「赤ちゃんのことを」
「そう、赤ちゃんを抱いている夢をよく見たんだよ」
「そんなんだったの」
「今度、連れてこようか」
「でも小さな子供を、連れて出るのは大変でしょう」
「電車はダメ。とにかくリンと出かけるときは、重装備だからね。それに、外じゃおしめを替えるところもないし」
「女性用のトイレには、おしめを替えるベットがあるわよ」
「僕が、女性用のトイレに入るわけにはいかないじゃないか。いくらおしめを替えるためだって」

「そうか」
「男が、赤ちゃんの世話をできるところは、ほとんどないんだよ」
「そういうのって大変だね」
「ぜんぜん」
「どうして」
「そんなのすべて、調査済みだから。妊娠しているあいだに、調査をしたんだ」
「ふーん」
「それで、電車での外出は不可能って結論だったんだ。リンができたら、車ってことに決めていたから、問題は何もないですよ」
「さすがね」
「だから、車もワンボックスにしたし、車にもベビーベットをセットしてあるし、車ならどこへでもいけるよ」
「でも、それで会社に来るのは大変だから、私たちが鈴木さんの家に行くわ。そのほうが楽でしょ」
「おいでおいで」
「土曜日か、日曜日あたり、都合のいい日にね」
「男はいらないけど、子供が欲しいって女の人は、ひょっとすると、町田さん」
「ふふふ…」
町田は、否定も肯定もせず、意味ありげに笑った。
「わかった。いいよ、リンができてから、休みはほとんど家にいるから、いつでも待ってるよ」
と言って、鈴木も笑った。そこへ、柏木啓一が来た。
「最近どうだい」
「今、町田さんがリンのことを聞きに来たけど、まあ、騒ぎはおさまっているよ」
「何がいちばん大変だった」
「なにも」
「未婚の父だもの、そんなことないだろう」
柏木啓一は驚いた。町田直美が言う。
「鈴木さんは、準備がよかったのよ」
「大変だって思っているから大変なんで、子供第一ってすれば、どうってことないよ」
「やったほうが勝ちでしょう」
「もう子供がいるんだから、今さらどうもできないじゃないか」
「たしかに、やったほうが勝ちだよね」
「子供がいるのに、誰もああせいこうせいって言えないよ」
「他の誰かに、喰わして貰っているわけじゃないしな。他人の子供に、誰もとやかく言える立場じゃないからな」
「男のほうがオッタキーだから、子育てには向いているかも知れないわね」
「子育てオタクだよ、僕は」
「子育てオタクか。いよいよ子供も趣味の対象となったって」
「まわりの気分をうかがっているから、好きなことができないんだ」
「ところで、未婚の父は、リストラの対象か」
と、柏木啓一が聞いた。
「まさか、公務員だぜ、俺たち。ちゃんと働いて、勤め人の仁義は守るよ。会社には迷惑をかけないさ」
「うん」
「うちの会社は、遠くへの転勤もないし、居心地はいいからね。職場は生活のもとだもの、仕事は大切にするさ」
「たしかに」
柏木啓一は、自分が鈴木清のように、未婚の父になるつもりはなかった。しかし、鈴木清の生き方を、特別なものと見る気もなかった。鈴木清は、ただ子育てにオタクなのだと考えただけだった。
「ところで、町田さんたちと一緒に家へ来ないか。僕のリンを見に」
と、鈴木清が言った。
「鈴木清さんの赤ちゃんを見に行きましょうよ、柏木さん」
と、町田直美も柏木を誘った。
「やったもん勝ちか」
と、柏木啓一はつぶやいた。
<了>

雨中居へ戻る