ハーイ ベイビイ
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 その一時間後、台所での、鈴木清と母・和子の会話である。
「母さん、ちょっと、頼みがあるんだけど」
「なんだい、ほんとに。この子はいったいどういう人生になるんだろうね。おー、よしよし。ほら笑ったよ」
「まだ笑わないよ。生まれたばっかりなんだから」
鈴木清は事務的に応えた。
「そうかね、でも赤ちゃんはかわいいね」
「これから僕が、この子を育てるんだけれど、昼間は会社に行かなくちゃならないだろう。そこで頼みたいんだ。昼間だけでいいんだけど、母さんがめんどうをみてくれないかな、孫の」
「清」
「公務員だからといって、優先的に託児所に入れられるわけじゃないし…。民間の託児所に入れるのって。ちょっと不安だし…。それに、けっこう金がかかるんだ」
「そんなことをいったって、清。本当にこの子は清の子かい」
「そうだよ、彼女は僕の子供を妊娠してくれたんだよ」
「だけど、その女の人は、いろいろな男と付き合っていたんじゃないのかい。どうして清の子供だって判るんだい」
「そんな女の人じゃないよ。まじめな人だよ」
「女は、わからないからね。ほかの男と浮気をしたって、どこにも証拠は残らないんだよ」
「彼女はほかに男性はいないよ」
と、清は力説する。
「一度でも浮気をすれば、子供ができるんだよ、女は。浮気をすれば、清の子供かどうかは分からないじゃないかい」
「ほら、この辺が僕に似ているじゃない」
「あら本当だ。清の小さい頃そっくり」
和子は思わず相づちをうってしまった。
「だからさ、僕が会社にいるあいだ、めんどうをみて欲しいんだよ。残業はしないで、まっすぐ帰ってくるからさ」
「女は自分の子だって判るけど、男は判らないだろ」
「母さん、そんなことはないって。この子は僕の子だよ」
鈴木清は、自分の子供であると力説した。
「この子の血液型はA型。僕もA型、間違いないよ」
「血液型なんて、あてにならないもんだよ。昔はB型だったお父さんも、歳をとったらA型になったからね」
鈴木清はあきれて言った。
「血液型は、一生変わらないの。何を言ってるんだ母さんは。母さんはB型だろう、親父がB型だったら、A型の僕が生まれるわけないじゃないか。親父は、昔からA型だったの」
「でも、こまったね」
「母さんが引き受けてくれないと、託児所を捜さなけりゃならないんだ。お願いだ」
と、鈴木清は懇願した。
 和子は、運命的な出会いを感じていた。
 今まで口には出さなかったが、もし、清が結婚して共稼ぎをするといったら、和子は孫の世話を引き受けるつもりだった。心のどこかで、孫を待っていた。だから、清が言いだす前から、すでに引き受けるつもりであった。
 清が赤ん坊を連れてきたときから、心のすみで清の子に違いないと感じていた。しかし、母親のいない孫は、まったく想像していなかった。母なし子を育てていいのか、その決心がつかなかった。
 和子は逡巡しながら
「託児所はやっぱり他人だし、子供は家庭で育てるのが一番だからね。それはそうだよ」
といった。
「だからさ、母さんにたのみたいんだよ。なにしろ、僕を育ててくれたんだろ、母さんは。母さんに預けるんなら、絶対安心なんだ」
「でも、清。その女の人は、ほんとうに信用できるのかい」
「もちろん。この子は僕の子だよ」
和子は赤ちゃんの顔を見た。
「よしよし。ほら、笑うんだよ」
「いま、何時? もうミルクの時間だな」
「私がやろうか」
と、和子は思わず言ってしまった。
「いや、僕がいるときはいいんだ。僕がいるときは自分でやるよ。赤ん坊の世話をしたくて、子供を産んで貰ったんだから」
「そうじゃないよ、ほら。危なっかしいね」
「いまじゃこうやるの。このほうが清潔だろ」
「清。この子は…」
「ほら、かして」
鈴木清は、赤ちゃんにミルクを含ませた。和子は黙っていた。
「ああ、いい子だね。おいしいかい」
「これからどうするんだい、この子を」
と和子は言いながら、ミルクを呑む赤ちゃんを、目を細めて眺めた。心の底からわき出してくる可愛さを、止めることができなかった。
「どうするって、昼間、母さんがめんどうを見てくれるかどうかだよ。ね、母さん」
そう言って、鈴木清は子供を連れて、自室に引き上げてしまった。

 その晩、鈴木源三と和子は、なかなか眠れなかった。
「おとうさん。どうします」
「誰が産んだかもわからん子供を、家に入れるわけにはいかん」
「清は、自分の子だと言っていますよ」
「おまえが、いつも甘やかすからだ」
「お父さんが、清と何も話さないからですよ」
「そんな、おまえ」
「とにかく、子供がもう家にいるんですよ」
和子は、すでに心を決めているためか、落ちついていた。いや、幸せだと言っても良かった。
「子供じゃなくて、孫ですけどね。私たちには」
「…」
源三はこの事態に、どう対応していいのか判らなかった。
「だいたい、親戚や近所の人にはなんていうんだ。母親のいない子供なんて」
「まあ、そうですけど」
「清が子供を産んだと言うのか。男が子供を産んだなんて、誰が信用する」
「赤ちゃんを見たときは驚きましたけれど、私は育ててもいいと思っているんです。親戚や近所の人たちのために、生きているんじゃありませんからね」
「なんだって」
和子は毅然といった。
「だって清が結婚したら、この家からでて行くだろうし、そうすると寂しくなるでしょう」
「あたりまえだ、そんなことは」
「もし、この家に一緒に住んでもいいって、お嫁さんが言っても、お互いに気を使うと思うのよ。お嫁さんは他人だから…。でも、孫だけなら、そんな気遣いはいらないでしょう」
「…」
「大人だけの家って、なんかこう明るくないわ。小さな子供は手がかかるけれど、家中が明るくなるし。それに、私だってまだ体力があるから、昼間だけなら、めんどうが見れると思うの」
「だが…」
「清は、優しい子だった。いままで我がままを言ったことがなかった。せっかく清が、ああ言っているんだから、私は応援しようと思うの」
「わしゃ、知らんぞ」
「どうせ、お父さんは、面倒をみないでしょう。清の時だって、全部、私がやったんですから」
「…」
「田舎のおばあちゃんも驚くわね、きっと。小さな頃から、清をかわいがってくれていたから、かえって喜ぶかしら。曾孫の顔がみれたって」
「ばか、何を言ってるんだ」
源三には、まっとうに対処すべき言葉がない。
「家に、人が増えることはいいことだわ」
「うーん」
源三はそれ以上、何も言えなかった。

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