ベイビィ エクスプレス




 2人が勤めから帰ったその晩である。
「あの赤ちゃんは何て言う名前」
と相馬美紀が聞いた。
「知らない。名前どころじゃなかったもの。まだ名前はついていないんじゃない」
と、山本恵子。
「ねえ、赤ちゃんだって名前が欲しいよね」
「とうぜん」
「何て名前がいい」
「私達で名前をつけよう。身寄りが現れても、その時はその時でさ。いつまでも名前がなくちゃ、話もできないからね」
「そう来ると思った。今日さ、本屋に寄って来たんだよ。これ」
といって、相馬美紀は一冊の本を取り出した。
「姓名判断か。やるーう」
と山本恵子。相馬美紀は早速ページをめくりはじめた
「大地か、いいね。拓也、これもいい」
「秀。これ、シュウ。相馬秀。良い名前じゃない」
「ちょっと待ってよ」
「なに」
「何って何よ、誰が相馬なの」
「じゃ何よ」
「山本大地じゃどうしていけないの」
「えっ! あっ、そうか」
「私が見つけたんだよ、あの赤ちゃんは」
「でも、欲しいって言ったのは私だよ」
「そんなことないわ。第一発見者に権利があるのよ」
「物じゃないって言ったのは誰」
「でも、どうしよう」
「名前って…。あの赤ちゃんには姓も必要だったんだ」 
「これは困ったぞ」
「どっちの姓にする」
「うーん」
2人は考え込んでしまった。
「相馬と山本、2人は別の姓だものね」
「今まで、こんなこと考えたこともなかったからね」
「どうしよう」
「足して2で割る。相山っていうのはどう」
「そんな。漫画じゃないんだよ」
「じゃあどうする」
「外国だとさ、両方の姓を入れられるんだって。知ってる」
「へーえ、そうなんだ」
「だから3つも、4つも名前がある人もいるよ。相馬・山本大地か」
「でも日本じゃ駄目なんでしょ」
「まあね」

 初めのうちは2人とも、自分の姓で考えていた。
一緒に住んでいる相手の姓を名乗らせる、そんなことは考えもしなかった。
相手の姓に自分の子供の名前をつなげることには、2人は何か不思議な落ち着きの悪さを、感じざるを得なかった。

 2人のうちどちらが養育費を多く払おうとも、どちらかに血の繋がりがあれば、ことは自然に決まったに違いない。
生んだ女性の姓を名乗るはずである。
血縁のない2人が1人の子供を持つ、そこから話がややこしくなってきた。


 しかし、時間がたってみると、姓はどちらでも良くなった。
話を持ってきた山本恵子にしても、赤ん坊を引き取ろうと言いだした相馬美紀にしても、どちらの姓を名乗らせても良いと思い始めた。
姓といった形式よりも、生身の赤ちゃんが大切だった。

 戸籍を新たに作り、子供だけの世帯を作ることも考えたが、それなら相手と同じ姓のほうが、まだ馴染みがあった。
「山本でいいよ。ヤマが見つけた子だから」
「うん、でも。ミキが欲しいって言い始めるまでは、そんな気はなかったからね。相馬が良いかも」
「どうしよう」
こういうときに大胆になるのは、相馬美紀である。
「もうこうなったら、運に任せよう」
そう言って、相馬美紀はカードを持ってきた。
「大きいカードをひいたほうの姓、一回勝負。これでいこう」
「ミキ! でもそうね…、そうしよう」
山本恵子も同意した。相馬美紀はカードをきって、テーブルの上においた。
「でもこれって、意外に重大なことかも。だって、将来には相続の問題とかが出るんでしょう」
「そうだよ。自分の財産の行き先だよ、この子は」
「そうか」
「でも、そんなの遺言しておけばいいって」
「へえ」
「だって、子供がいなけりゃ、このマンションだって、誰も住み手がいないじゃない」
「私のほうが先に死んじゃえばね」
と山本恵子。
「同い年なんだから、どうなるか分からないでしょ」
「まあ先のことは考えないで、赤ちゃんの姓をどちらにするか」
「先にひいて良いよ」
「じゃ、お先」
「勝負」
「私ね、勝負」
「せいのであけるのよ」
「せいの、それっ」
「あーっ、負けた」
負けた相馬美紀は大げさに嘆いて、カードを握ったまま顔を伏せた。
「決まりね」
「しょがないね」
「名前は秀にするわ」
「ありがとう。山本秀ね、悪くないじゃん」
自分たちが引き受けることができるかどうか、まだ分からない赤ん坊の名前をめぐって、2人はあつくなっていた。

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