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駅から反対側にしばらく歩いた住宅地のなかに、「太陽の園」はあった。 「おはようございます」 山本恵子は元気良く挨拶する。 「おはようございます」 なじみの看護さんが挨拶を返してくる。彼は神田貢といって、長年ここで老人看護をしている。彼は園長代理である。 「昨日は大変でしたね」 「そう、てんやわんや。今日もこれからだ」 「ところで神田さん、少し聞きたいことがあるんですが」 「何、山本さん」 「いや、実は昨日の赤ちゃんね、もし身元が分からなかったらどうなるのかなって、ちょっと思ったものだから」 「どうしたの」 「いえ、ちょっと。あっ、こちらは一緒に住んでいるミキ、相馬美紀さんです」 「こんにちは、相馬です」 相馬美紀はにこやかに頭を下げた。 「こんにちは。で、相馬さんもボランティアを?」 と神田が聞く。 「いえ、違うんです。昨日の赤ちゃんの話が気になって、来てみたんです」 「あ、赤ちゃんね。元気だよ」 「赤ちゃん、ちょっと見せてもらっても良いですか」 と山本恵子が聞いた。神田は 「うん、いいよ。でも、僕にもどうなるか、まだ分からないよ」 と言った。 「ええ、いいんです。見るだけですから」 赤ちゃんが寝ている宿直室へ、神田は彼女たちを案内した。 そこは畳敷きの六畳間で、窓際に布団が敷かれていた。 「ほら、ここ…。でも、大変だよ。いきなり死人と赤ん坊だろ」 老人ホームでは、子供が寝ることなど予想もしていないので、「太陽の園」には小さな布団などない。 大人用の大きな布団の真ん中に、小さな赤ちゃんが置かれていた。 「お母さんは亡くなったんでしょ。困りますよね」 と相馬美紀が言った。すると、 「ウチじゃあ、老人が多いでしょ。だから病院や、お寺には知り合いがいるから、死人は何とかなるんだよ。亡くなったお母さんのほうは、いよいよとなったら真宗寺の無縁様にお願いすればいいからね。何とかカタがつくよ。でも、生きてる赤ん坊は初めてだからね。困ったよ」 と神田は言って、笑い顔を見せた。 「この赤ちゃんの引き取り手は、どなたかいるんですか」 と相馬美紀。 「いや、まだ分からない。だって、昨日の今日だもの」 「そうですね。ところで、身元はどうやって調べるんですか」 と山本恵子が聞く。 「うちじゃあ分からない。警察とか、区役所とか、役所に任せるしかないね」 「それまでこの赤ちゃんは、ここに寝かせて置くんですか」 「仕方ないじゃないか」 「そうですね」 「元気な赤ちゃんだもの、捨てるわけにはいかないしさ」 と言って神田は笑ったが、いつまで面倒を見ればいいのかわからず、彼の顔には半ば困惑の色が見えた。 「夕べはどうしたんですか」 相馬美紀が聞く。 「夕べはね、宿直だった今泉さんがミルクをやったみたいだよ」 「ああ、今泉さん」 「ウチには、子育てのベテランがたくさんいるから、しばらくは大丈夫だけど…」 「そうですね」 「でも今泉さんだって、ウチにきて赤ん坊のミルクを作るとは、思わなかったんじゃないかな」 「そうでしょうね、ここは老人ホームだからね」 2人はそう言いながら、顔をあわせて笑った。 「でも、生まれたばかりの赤ちゃんて小さいですね。かわいい」 そう言いながら、相馬美紀は赤ちゃんをのぞき込んだ。 ほんとうに赤い顔の、小さな赤ちゃんだった。 まだ眼も開いておらず、ただ唇をもぐもぐやるだけだった。 「赤ちゃんの引き取り手が現れなかったら、どうするんですか」 と相馬美紀は聞いた。 「うん、まだ何も決めてないけど、どこかの施設に行くことになるだろね」 「そうですか」 と、山本恵子。 「それまでは、ここに寝かしておくんですか」 と相馬美紀が聞いた。 「本当は困るんだけれど。仕方ないからね」 突然の赤ちゃん騒動にふりまわされて、「太陽の園」は多いに困惑していた。 見知らぬ女性が園の前で倒れた。 そして、園で赤ん坊を産んだ。 しかし、園は女性とも赤ん坊とも、何の関係もない。 困惑するのが当然である。 「私達が引き受けましょうか」 と、相馬美紀。 「えっ!」 神田は驚いた。 「実は昨日、山本とも相談したんですが、この赤ちゃんを私達が引き取ろうか、と考えているんですよ」 「そう神田さん、私達二人で暮らしているから、子育ての手があるでしょう。それにもう歳だから、そろそろ子供が欲しくなってね」 「でも」 「それで昨日、この話を聞いて、私達で育てようって話になったんです」 と、相馬美紀は身を乗り出した。 「しかし、まだお父さんが名乗りだすかも知れないし、身元が分かるかも知れないよ」 「ええ、だから」 「だから、ほんとうに身寄りがないって分かってからですけど。里親っていうのですか」 「でも、あなた達は独身でしょ」 「ええ」 「里親といったって、両親がそろっていないと駄目なんだよ」 「でも、ウチには大人が2人いますよ」 「女性2人じゃ、いつ別れるとも限らないじゃないか。そしたら、子供はどうなる」 神田は戸惑っていた。 「ふつの両親だって、離婚することもあるじゃないですか。離婚すれば1人だけど、私たちは2人ですよ」 と、相馬美紀がいう。 「2人はずっと一緒に生活します」 と、山本恵子。 「そんなことを言ったって、将来のことは分からないでしょう。女性はいい人がいれば結婚しちゃうし」 「今のところ、2人とも結婚の予定は、まったくないんです」 「そう言ったって…。それに赤ちゃんの面倒を見るのは大変だよ」 「ええ分かっています」 「2人とも働いているんだろ。それじゃ子育ては無理だよ」 神田はそう言うと、駄目駄目と手を横にふった。 「でも、考えておいて下さい。もし身寄りがなかったら、私達が引き取りますから」 と2人は口をそろえて懇願した。 「山本さんは、ウチでボランティアを長くやってくれているからね。まじめな申し出だ、ということは分かったよ。もしその時はね、考えておくよ」 神田は彼女たちの熱意に押されて、曖昧な言葉で返事をにごした。 「よろしくお願いします」 「でも、私にお願いされても、決めるのは私じゃないよ。それに父親が名乗り出るかも知れないし」 「そうですね」 と相馬美紀は口ごもったが、しかし、2人は口をそろえて、もう一度力強く言った。 「よろしくお願いします」 その後、2人はそれぞれの職場へと向かった。 |
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