ベイビィ エクスプレス




 ロイヤル・コーポから「太陽の園」までは歩いて20分ほどである。
駅から反対側にしばらく歩いた住宅地のなかに、「太陽の園」はあった。
「おはようございます」
山本恵子は元気良く挨拶する。
「おはようございます」
なじみの看護さんが挨拶を返してくる。彼は神田貢といって、長年ここで老人看護をしている。彼は園長代理である。
「昨日は大変でしたね」
「そう、てんやわんや。今日もこれからだ」
「ところで神田さん、少し聞きたいことがあるんですが」
「何、山本さん」
「いや、実は昨日の赤ちゃんね、もし身元が分からなかったらどうなるのかなって、ちょっと思ったものだから」
「どうしたの」
「いえ、ちょっと。あっ、こちらは一緒に住んでいるミキ、相馬美紀さんです」
「こんにちは、相馬です」
相馬美紀はにこやかに頭を下げた。
「こんにちは。で、相馬さんもボランティアを?」
と神田が聞く。
「いえ、違うんです。昨日の赤ちゃんの話が気になって、来てみたんです」
「あ、赤ちゃんね。元気だよ」
「赤ちゃん、ちょっと見せてもらっても良いですか」
と山本恵子が聞いた。神田は
「うん、いいよ。でも、僕にもどうなるか、まだ分からないよ」
と言った。
「ええ、いいんです。見るだけですから」
赤ちゃんが寝ている宿直室へ、神田は彼女たちを案内した。
そこは畳敷きの六畳間で、窓際に布団が敷かれていた。
「ほら、ここ…。でも、大変だよ。いきなり死人と赤ん坊だろ」

 老人ホームでは、子供が寝ることなど予想もしていないので、「太陽の園」には小さな布団などない。
大人用の大きな布団の真ん中に、小さな赤ちゃんが置かれていた。
「お母さんは亡くなったんでしょ。困りますよね」
と相馬美紀が言った。すると、
「ウチじゃあ、老人が多いでしょ。だから病院や、お寺には知り合いがいるから、死人は何とかなるんだよ。亡くなったお母さんのほうは、いよいよとなったら真宗寺の無縁様にお願いすればいいからね。何とかカタがつくよ。でも、生きてる赤ん坊は初めてだからね。困ったよ」
と神田は言って、笑い顔を見せた。
「この赤ちゃんの引き取り手は、どなたかいるんですか」
と相馬美紀。
「いや、まだ分からない。だって、昨日の今日だもの」
「そうですね。ところで、身元はどうやって調べるんですか」
と山本恵子が聞く。
「うちじゃあ分からない。警察とか、区役所とか、役所に任せるしかないね」
「それまでこの赤ちゃんは、ここに寝かせて置くんですか」
「仕方ないじゃないか」
「そうですね」
「元気な赤ちゃんだもの、捨てるわけにはいかないしさ」
と言って神田は笑ったが、いつまで面倒を見ればいいのかわからず、彼の顔には半ば困惑の色が見えた。
「夕べはどうしたんですか」
相馬美紀が聞く。
「夕べはね、宿直だった今泉さんがミルクをやったみたいだよ」
「ああ、今泉さん」
「ウチには、子育てのベテランがたくさんいるから、しばらくは大丈夫だけど…」
「そうですね」
「でも今泉さんだって、ウチにきて赤ん坊のミルクを作るとは、思わなかったんじゃないかな」
「そうでしょうね、ここは老人ホームだからね」
2人はそう言いながら、顔をあわせて笑った。
「でも、生まれたばかりの赤ちゃんて小さいですね。かわいい」
そう言いながら、相馬美紀は赤ちゃんをのぞき込んだ。
ほんとうに赤い顔の、小さな赤ちゃんだった。
まだ眼も開いておらず、ただ唇をもぐもぐやるだけだった。
「赤ちゃんの引き取り手が現れなかったら、どうするんですか」
と相馬美紀は聞いた。
「うん、まだ何も決めてないけど、どこかの施設に行くことになるだろね」
「そうですか」
と、山本恵子。
「それまでは、ここに寝かしておくんですか」
と相馬美紀が聞いた。
「本当は困るんだけれど。仕方ないからね」


 突然の赤ちゃん騒動にふりまわされて、「太陽の園」は多いに困惑していた。
見知らぬ女性が園の前で倒れた。
そして、園で赤ん坊を産んだ。
しかし、園は女性とも赤ん坊とも、何の関係もない。
困惑するのが当然である。
「私達が引き受けましょうか」
と、相馬美紀。
「えっ!」
神田は驚いた。
「実は昨日、山本とも相談したんですが、この赤ちゃんを私達が引き取ろうか、と考えているんですよ」
「そう神田さん、私達二人で暮らしているから、子育ての手があるでしょう。それにもう歳だから、そろそろ子供が欲しくなってね」
「でも」
「それで昨日、この話を聞いて、私達で育てようって話になったんです」
と、相馬美紀は身を乗り出した。
「しかし、まだお父さんが名乗りだすかも知れないし、身元が分かるかも知れないよ」
「ええ、だから」
「だから、ほんとうに身寄りがないって分かってからですけど。里親っていうのですか」
「でも、あなた達は独身でしょ」
「ええ」
「里親といったって、両親がそろっていないと駄目なんだよ」
「でも、ウチには大人が2人いますよ」
「女性2人じゃ、いつ別れるとも限らないじゃないか。そしたら、子供はどうなる」
神田は戸惑っていた。
「ふつの両親だって、離婚することもあるじゃないですか。離婚すれば1人だけど、私たちは2人ですよ」
と、相馬美紀がいう。
「2人はずっと一緒に生活します」
と、山本恵子。
「そんなことを言ったって、将来のことは分からないでしょう。女性はいい人がいれば結婚しちゃうし」
「今のところ、2人とも結婚の予定は、まったくないんです」
「そう言ったって…。それに赤ちゃんの面倒を見るのは大変だよ」
「ええ分かっています」
「2人とも働いているんだろ。それじゃ子育ては無理だよ」
神田はそう言うと、駄目駄目と手を横にふった。
「でも、考えておいて下さい。もし身寄りがなかったら、私達が引き取りますから」
と2人は口をそろえて懇願した。
「山本さんは、ウチでボランティアを長くやってくれているからね。まじめな申し出だ、ということは分かったよ。もしその時はね、考えておくよ」
神田は彼女たちの熱意に押されて、曖昧な言葉で返事をにごした。
「よろしくお願いします」
「でも、私にお願いされても、決めるのは私じゃないよ。それに父親が名乗り出るかも知れないし」
「そうですね」
と相馬美紀は口ごもったが、しかし、2人は口をそろえて、もう一度力強く言った。
「よろしくお願いします」
その後、2人はそれぞれの職場へと向かった。


次へ