初老人たちと若者のクロアチア旅行記
2013.6.−記
第1日目 ザグレブに到着
第2日目 ザグレブ市内−午前中 ザグレブ市内−午後から
第3日目 シュベニクへ
第4日目 シュベニク→スプリット
第5日目 スプリットは城壁内
第6日目 城壁内から市外へ
第7日目 スターリ・グラード往復
第8日目 スプリット→ドブロヴニク
第9日目 ドブロヴニクの城壁内
第10日目 ドブロヴニク→ザグレブ
第11日目 ザグレブを出発 雨中居のトップに戻る


第9日目  ドブロヴニクの城壁内 

 今度の宿は2階建ての2階で、向かいの部屋には大家さんが住んでいる。下にも部屋があるが、そこも客が入っているようだ。我々の部屋は、2DKといったらいいだろうか。大小2つの寝室にキッチンとバストイレが付いている。キッチンは5人にはやや狭いが、5人の宿泊には充分な空間である。洗濯機も付いているので、若者たちは洗濯に余念がない。

ロヴリイェナツ要塞
城壁内の密集住宅
城壁内の隙間から
城壁内の工事現場

 簡単な朝食の後、全員そろって城壁の旧市街へと向かう。坂道を降りる途中で、海へと続くだろう小径に入りこむ。クネクネと歩いて行くうちに海に出たのだが、右手にロヴリイェナツ要塞が見えたので、おもわずそちらに足が向いてしまった。朝早いこともあって、誰もいなかったが、入り口ではしっかりと入場料を取られた。しかし、普通の人は城壁を一周してから、その半券を持ってここに来るらしい。だから誰もいなかったわけだ。

 ツアーならこうした失敗はないだろう。しかし、誰もいないロヴリイェナツ要塞は、往時の思いに耽ることができて良かった。大勢の観光客に取り囲まれていれば、なかなか昔を偲ぶことはできないものだ。火薬が普及するのは13世紀だから、それ以前の戦争は投石器が主役だった。この要塞には、投石器に使ったろうと思われる石が展示されている。映画でみるシーンを思い出しながら、当時の戦争は恐ろしかっただろうと想像する。

 下の湾からはカヤックがみえる。若者がカヤックに興味を示している。初老人たちには海水につかるなど、想像もつかないようだ。チンしたらどうする。日焼けするだろう、と初老人たちに心配は尽きない。そんな話をしながら、ビレ門に到着する。

 ビレ門を入る。今日は城壁をめぐる。右手で切符を売っている。しかし、これが長蛇の列なのだ。先にロヴリイェナツ要塞に行ってしまったのが失敗だった。朝早ければ並ばずに済んだと、後悔先に立たずである。若者が並んでくれたので、われわれ初老人はカフェでお茶をして待つことになった。

 城壁の入り口は、ビレ門の左手である。1人がやっと通れるくらいの階段を上っていく。途中で切符のチェックがあるが、やる気がない態度がありあり。こんな働き方ですむとは、日本人たちの勤勉な労働態度がおかしいと思ってしまう。労働者は時間を売っているのだから、身も心も職場に捧げることはない。どこでも普通の労働者はこんな働き方だ。日本だけが滅私奉公的な労働態度なのだ。日本の経営者は立派(?)な労働者をもって感謝すべきだろう。
 
 すでに陽が高くのぼり、帽子が必要な日差しである。城壁の上を時計回りと反対に歩く。この城壁は幅が狭いので、歩く方向が決められているのだ。ところどころに階段があり、城壁の内部には市民生活が見え、反対側には海が見える。部屋の中が見えるところもある。手の届きそうなところに、洗濯物が干してあったり、観光客の視線に晒されており、ここで生活するのは大変そうだ。

 と思うと、大きなパンツから小さなパンツへと、10枚以上のパンツが一列に並べて干してある。それが城壁に平行だから、いやでも観光客の目に入る。大から小へとキチンと整列しているから、観客の目を意識しているに違いない。観光客たちも爆笑とともに、シャッターを切る。良い土産話ができた。これこそ市民と観光客との心の交流だって…。

 城壁は2キロ近くある。アッチを見たりコッチを見たりするから、おそらく1時間では歩ききれないだろう。しかも、階段の上り下りもあり、ちょっと待ち合わせもする。ところどころには商魂たくましい売店もある。途中で一度だが、切符の検札がある。ここから入ってくる人もいるようだ。また、ここで出ていく人もいる。もちろん我々は一周するので、歩き続ける。

 現在の都市は、車が通れるくらいには道幅が広い。しかし、この城壁の中に広がる市街地は、手を伸ばせば届くくらいの道幅である。3〜4階建ての建物がギッシリと建ちならんでいる。ほんの少し残った空き地には、いまも建築している人がいる。車や機械が入らないから、コンクリートも手練りである。下を見ると、現場でコンクリートを練って、一輪車で運んでいる。我が国では見なくなってしまったミキサーが現役で使われている。

 砂漠の真ん中に生まれてしまえば遊牧民になるように、この街に生まれたら隣近所とツーツーで暮らしていくのだろう。こんなに狭い場所で子供時代を過ごせば、近所の人たちには全部知られてしまうに違いない。思春期を迎える頃には、息がつまるような気分に襲われるだろう。自我の目覚めには目をつむって近代人になるのを諦めて、郷土愛に暮らすようになるのは何歳くらいからだろうか。

 そんなことを考えながら、城壁を一周してくる。プラツァ通りからルジャ広場をとおって、港へ行く。たくさんのレストランが並んでいる。昼食なのだ。若者たちの貧弱な食生活改善のために、ちょっと高級そうなレストランに入る。各自一皿と飲み物を注文する。潮風に吹かれながら、ゆっくりと昼食を楽しむ。贅沢な時間である。5人前がしめて550クーネ、日本円で約1万円である。

 昼食後は、各自ばらばらの行動にする。小さな城壁内のこと、迷子になる心配もない。女性陣はグラスボートに乗って沖へ出て行った。海底の魚などを見せてくれるらしい。しかし、帰ってきてからの話では、何も見えなかったと憤慨していた。

 狭い城壁の中に、フランシスコ会修道院、総督邸、民族博物館、聖母被昇天大聖堂、スポンザ宮殿、ドミニコ会修道院、セルビア正教会、海洋博物館などなど、見せ物はたくさんある。いくつか摘まみ食いして見学する。博物館内のミュジーアムショップで、売り子の女性から聖像のレプリカを薦められる。
 「Are you familier to God ? 」
と聞いてみた。すると、彼女ははにかんで、
「Mother goes to church, me …」
という。そうだよね、もう神様は死んでいるからねというと、彼女は恥ずかしそうに神様を信じていないという。

 神様を信じることができたら、どんなに良いだろう。どんなに楽だろう。神様を殺してしまった近代人の末裔は、教会に入るたびにそう思う。神の道を生きるのは、人間には重すぎるかも知れない。近代人は狂気と紙一重のところを生きているのだ。ヨーロッパのはずれに来ても、神様と格闘してきた人々の足跡を見る。

城壁内を見る

 と言ったことはすっかり忘れて、一度、宿に戻る。すると、庭で宿のオーナーと会った。船会社に勤めて定年退職後に、この建物を買ったのだそうだ。日本にも赴任したことがあるとかで、横浜とか神戸といった地名を知っていた。そして、物置から自家製のお酒をだして、ボクたちに振る舞ってくれた。

 全員で夕食をするのは、今夜が最後である。ということで、ナウティカという5つ☆レストランへと行く。男性陣はジャケット着用である。ビレ門脇にあり、海際の席が売り物らしい。予約の時に海際の席を希望したら、なかなかに良い席を用意してくれていた。

 シーフードが中心である。何語のメニューが良いって聞いてきたので、まさか用意しているとは思わなかったが、日本語と答えた。すると、驚いたことに、日本語のメニューがでてきた。これには感動した。日本人客がたくさん来ているとはいえ、日本語のメニューを用意するなんてできないことだ。食事のときにアジア人が混じると、違う雰囲気をもってしまうので嫌うレストランは多い。そのため、隅の席に案内したりする。しかし、このレストランはお金を運んでくる客を平等に扱っている。とても嬉しかった。

 やや古いタイプのしっかりした味付けの料理だった。料理に関しては、新しい味付けを好まないので、この味付けはボク好みである。さすがに5☆である。味もさるもの、テーブルにサービスする人は3人ついた。

 日本語こそ喋らなかったが、良いサービスだった。なかでもニックは笑顔を絶やさず、付かず離れずの間合いが良く、チップを渡し損ねたのが心残りだった。クロアチアではチップという習慣がないので、つい忘れてしまった。海外では、感謝の気持ちは形にしなければ通じない。気に入ったときには、心付けを渡すべきだ、とボクは思っている。

 テーブルの料理を入れて、ニックに5人の集合写真を撮ってもらった。こうしたレストランでは観光客が多いの だろう、と自分を無理やり納得させる。すっかりお上りさんをやってしまった。でも、良いご機嫌で宿へと戻ったのであった。

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