初老人たちと若者のクロアチア旅行記
2013.6.−記
第1日目 ザグレブに到着
第2日目 ザグレブ市内−午前中 ザグレブ市内−午後から
第3日目 シュベニクへ
第4日目 シュベニク→スプリット
第5日目 スプリットは城壁内
第6日目 城壁内から市外へ
第7日目 スターリ・グラード往復
第8日目 スプリット→ドブロヴニク
第9日目 ドブロヴニクの城壁内
第10日目 ドブロヴニク→ザグレブ
第11日目 ザグレブを出発 雨中居のトップに戻る


第5日目   スプリットは城壁内 

 朝起きると、宿さがしにでる。ガイドブックで当たりを付けて、近所のホテルに行ってみた。30メートルと離れていない。2階がフロントで、今の宿より高級そうである。今夜は満室だが、明日なら空いているという。700クーネだが、連れ合いはお気に入りである。とりあえず、明日の予約を入れ、また宿に戻る。

 宿のオバサンに訳を話すと、今夜は満室だが、友人が近くでホテルをやっているので話してあげるという。電話を入れると、OKとのこと。荷物を持って、オバサンについて友人のホテルへ行く。夕べ行ったレストランの近くで、4階にあった。ホテルと言うより普通のアパートで、部屋が空いているので貸してお小遣いにしよう、そんな感じである。

 こちらのオバサンは英語が話せないので、宿のオバサンが通訳となる。部屋はひろく、下にナロドニィ広場がみえる。改装はされていないが、リネンは清潔である。風呂やトレイは部屋の外で、この部屋のオバサンと共用である。他人に家に潜り込んだ感じで、夜のトイレには足音にも気をつけなければなるまい。連れ合いが気に入ったので、ここに決める。値段は前の宿と同じ360クーネである。当然のことながら、ここも現金払い。

 衣類が払底してきたので、洗濯を頼む。気持ちよく応じてくれ、今日中に仕上げるという。値段はお任せすると言うが、相場が判らない。宿のオバサンが50クーネでどうかと言ってくる。洗濯機にいっぱいの量だから、異議もなく承諾する。英語の喋れないオバサンは、お小遣いが稼げて、嬉しそうな表情である。

スプリット城壁内の広い路地

 スプリットは本当に小さな場所だ。南北が215メートル、東西が180メートルしかない。しかし、215×180が1軒の宮廷だったのだ。215×180の四角形に城壁をまわし、そのなかにすべての施設があった。ローマ皇帝だったディオクレティアヌスは引退後の住まいとして、この地を選び、宮殿という住宅を建築したのだ。

 その宮殿はその後、建築がくり返され、今、世界遺産になって観光施設になっている。海側の半分が彼の住まいで、山側の半分が兵士たちの住まいだったとか。しかも、海側の半分は2階建てになっていて、地下は現在は倉庫というか、展示場といった趣の空間になっている。3世紀に原形ができて、その後さまざまに手が加えられただろうが、改修は城壁がまわった内側にとどまった。城壁自体は拡大されたりしておらず、215×180のままだ。

 城壁の中心には大聖堂がそびえ立つ。その西側には小さな広場があり、小さいながらも都市と同じ様相をもっている。敵にそなえるために城壁をめぐらすのは理解できるが、中心に大聖堂を建築するのは、宗教というのが大きな意味をもっていたと知る。たった215×180のなかに、こんなに大きな教会をつくるとは、やはり驚きである。ローマは信教の自由があったはずだが、信心ということからは逃れられなかったのだ。

 現代の我が国では、坊さんが政治的な力をもつなんて想像できない。しかし、かつての西洋では神頼みだったのだ。みな喜んで喜捨したのだろう。神なんていないのに、西洋の人たちは神を創らざるを得なかった。それほど戦争が多く、民族間の抗争が絶えなかったのだろう。戦争に負ければ、女子供含めて皆殺しになる。そんなことになっては困るから、支配者も住民も一丸となったに違いない。そして、その核には信心が必要だったということだろう。

 215×180のなかに、あんなに大きな教会を建てる理由を考えると、ほんとうに昔は残酷だったんだなと、恐ろしくなってくる。すでに過去の遺物になっている宗教建築を見るたびに、現在に生まれた幸せを感じる。

 この街は観光制度がよく整っている。どこに行っても、市内の地図をくれるし、目印をすぐにその地図に書きこんでくれる。しかし、所詮小さな城郭である。なにせ城郭内に宿をとっているのだから、半日もあれば城郭内は充分に見ることができる。近くの島へも行こうと思う。

 青銅の門から城壁を出て、海岸沿いを、フェリー乗り場のほうへ行く。フヴァル島のスターリ・グラードへのフェリーを予約しようと思う。なかなか切符売場が見つからない。探し当てて切符売場に行くと、予約はないという。出発時間に来れば、誰でも乗ることができるのだそうだ。たしかに、座席指定でもなければ、予約は不要なのかも知れない。

 城壁の前の道を、海沿いに西に向かう。住民の生活は、もちろん城壁の外が中心である。とくに西側に広がる街並みが、商業の中心と言ったら良いだろうか。ヴェニスのサンマルコ広場のような Trg Republike 'Prokurative' の前を過ぎ、マルヤン丘へと向かう。この通りがきれいだと、宿のオバサンに薦められたのだ。

 細い路地を丘の上へと登っていく。ときどき階段があらわれて、徐々に高度を稼いでいく。あたりは石造りの家が建ちならび、普通の人たちが生活している。家の中からじっと外を見つめる老女と目が合う。互いににやっと笑うが、複雑な心境である。

市内の市民生活

 石造りの閉鎖的な建物の中で、じっと息を潜めて暮らす老女。おそらくクロアチアでも、都市の住民は孤独だろう。老女になっても、1人で生きるのかも知れない。階段の続く路地は、老人には決して優しくはない。この老女は暗い雰囲気ではなかったが、細い路地を見つめていた姿には、自分の老後に引き比べて感慨を催すことしきりだった。

 そんな感慨はさらりと忘れて、なおも階段を上り続ける。丘の上には、墓地が広がっていた。墓地自体は驚くことはなかったが、簡単な家系図が描かれ、その脇に10センチほどの写真が貼り付けられていたのだ。焼き物のような感じで、白黒の顔写真が貼ってある。ちょうど葬式の写真を小さくしたような感じで、よそ行きの表情をしたものだろう。墓参りに来たときに、遺族は写真を見て、お祖父ちゃんやお婆ちゃんを思い出すのだろうか。

 人通りの少ない墓地を歩きながら、クロアチアの国旗のはためく丘の頂上への道を探すが、頂上へは行けないようだ。いちど坂道をくだり、別の方角から頂上へ向かう。恋人が語らっている脇を過ぎ、荒れた階段を上るが、工事中らしく途中で行き止まりになってしまった。こんな場所には観光客は来ないので、のんびりと街の雰囲気を味わいながら坂を下り始めた。

 映画館やブッティクなどがある地域をあるく。城壁内に戻る。大聖堂に登ることにする。ここも順路ができており、まず裏の博物館に入る。むかしの衣類や紋章などが展示されている。しかし、展示物の価値がよく判らない。次に塔の下にある倉庫のようなところに入る。すべて有料である。湧き水のような池があり、上に鉄の格子がかぶせてある。

 再び表に出て、今度は塔に登る。中心に鐘を鳴らす機械が貫通しており、その廻りを狭い階段がグルグルと回って登っていく。蹴上げが高く、一段一段登るのがたいへんだ。大勢の人が登っているので、すれ違うのも困難で、ところどころ待っている。塔の一番上には、鐘があり、決まった時間に鳴っているようだ。

スプリット城壁内の薄暮

 高いところへ登っても、特別の感動はない。街並みが見えて、海が見える。それだけだ。小学校前くらいの小さな子供も登っており、笑顔がかわいい。どこでも子供は可愛いものだ。前庭を横切って、向かいの洗礼室へと行く。とにかく近い。城壁の中を細々と歩く。

 そんなことをしているうちに、夕食の時間となってくる。昨日のTratoria Bajamoht へと行く。2日続けていけば、さすがに顔を覚えている。同じ席に座って、グラスワインを注文する。昨日のワインはイマイチだったので、違う種類にして欲しいと頼む。すると、新しい瓶をあけてくれた。

 隣のテーブルに、中年のカップルが来た。聞けばカナダ人だという。去年ボストンからモントリオールにいった話など、ちょっと親しくなる。たまたま南米の話になり、チャベス大統領が死んだので、ヴェネズエラは良い国になるだろうという。やっぱり白人のスタンダードは反共なのだと、妙な感心をする。

 なぜ、こんな奥まった小さなレストランに来たのかと聞くと、「Lonely Planet」が推薦していたので来たという。脱帽である。わが「地球の歩き方」とは比べるべくもない。

 地元の人しか来ないだろう小さなレストランである。たとえ、観光客が来たとしても、特別の対応 があるわけでもない。しかし、「Lonely Planet」の執筆者は、こんな店にまで足を運んでいるのだ。リベートをもらって書 く案内書とは大きな違いだ。しかも、好き嫌いだけではなく、必要な情報を不足なく掲載している。まだまだ西洋には圧倒さ れることばかりだ、と思いながらスプリットの2晩目がふけていく。 

広告

次へ