シャワーを浴びて、外へでる。
まず、朝食を食べようと、飲茶屋をさがしながら、尖沙咀をあるく。
ネーザンロードを北へ、油麻地(ヤウマティ)のほうへと向かう。
朝が早いせいでか、多くの店はシャッターを閉めたままだ。
街を観察しながら歩く。
どこか良い店はないかと、キョロキョロする。
小さな両替店の若い女性が、ガラスの向こうで暇そうに漫画を読んでいる。
彼女にたずねる。すると彼女は、鴻星酒家(漢字といっしょにSuper Star Reustrantと書いてくれた)といって、親指を立てた。
親指の立て方が、いかにも上手いと言った感じ。
どこにあるのかと聞くと、かんたんな地図を書いてくれた。
店はネーザンロードに面している。
行ってみると、場所はすぐ判ったが、シャッターが降りている。
近所の人に聞くと、9時半からだという。
あと10分くら い待てばいいので、近所をぶらぶらと歩いて戻ってきたら、ちょうどシャッターを開けるところだった。
本日1番目の客である。
他には誰もいない。
幅2メートルもあろうかという階段をのぼっていく。
なんだか心細い。
しかし、ショーケースが並んで、いかがわ しい雰囲気はまったくなく、むしろ売れているレストランという空気を感じる。
勇をこして階段を上る。
店にはいると、早速テーブルへ案内される。
すると、あとから2組の客が、開店を待ちかねたように、いそいそと入ってきた。
地元の人たちは、9時半の開店を知っており、それにあわせて来たのだ。
これは期待できる。
ジャスミン茶をだされたが、他のお茶が良い。
コッポイはないという。ポーレイを希望する。
お茶がでてきた。
しかし、ボクができるのは、ここまでである。
言葉が通じないから、何を注文して良いか判らない。
何せ1番の客だから、参考にする先客がいない。
しかたなく後から来た人たちを観察する。
18年前には客の全員が、テーブルの上で食器洗いをしていた。
テーブルにつくとまず、食器類をお茶で洗うのが儀式だった。
食器洗い期が普及したので、いまや誰も食器洗いはしないらしい。
こんなところにも、近代化のあとが見える。
以前は、飲茶がワゴンで運ばれていたが、いまでは紙に書かれたメニューがわたされる。
それに印を付けて、店の人にわたすシステムに変わっている。
昔のシ ステムでは客のオーダーは、ワゴンの動くペースに従わざるを得ない。
だから、ワゴン・システムでは食べたい物を、自分のペースで食べることはできない。
メニューが紙に書いてあれば、すべてを一度に注文できる。
言葉の通じる地元に人たちには、このほうが好都合だろう。
店の都合から客の都合へと、オーダー・システムがかわったようだ。
しかし、言葉の通じない外国人には、困った仕儀になった。
メニューの漢字を、想像力を凝らしてみつめる。
まず、店のおすすめマークの付いたものを2つ頼む。
これで時間をかせぐ。
そして次に、10人くらいの家族連れの、隣のテーブルを観察する。
オヤジらしき 男性に挨拶をして、テーブルの上にあるお皿を指さす。
店の人はこれで了解。
次々に客が入ってくる。
シュウマイのような、団子のようなエビ入り蒸し餃子が、何ともいえない微妙な味。
おそらく何種類もの調味料を使っているのだろう。
歯をたてるまでもなく、舌の上にのせていると、じわっと味が広がる。
複雑な味で、感激ものである。
ニワトリの足をしゃぶる。
これは好物の一つで、中国ではどこでも食べられる。
関節まわりにある、ゼラチン状のこりこりした部分が、美味い。
醤油色だが、醤油味ではない。
やや味が濃く、骨をしゃぶり尽くし、残った細い骨をはきだす。
隣のテーブルと同じものが来た。
チマキらしい。
湯気が立っており、手や顔をはなせという仕草。
お店の人が、鋏のような鉄の道具で、皮をむいてくれる。
しっかりした餅米に、充分に味がしみこみ、少しの甘さを舌に感じる。
これも美味い。
急須の蓋をちょっとずらせておくと、たちまちお湯をつぎ足してくれる。
この合図は変わっていない。両替店の彼女も、ここへ来ているのだろう。
さすがに街の情報は確かである。
あと2品頼む。
2人で$154。
今日は、客家の人たちに会いに行く。
元朗(ユンロン)をめざす。
尖沙咀駅から地下鉄に乗る。
終点の?湾(チュウワン)でおりる。
九廣西鐵にのろうと、駅前で九廣西鐵の?湾駅を聞くが、言葉が通じない。
しかたなく元朗に行きたいのだが、と地図を見せると、下のバスを指さした。
ここで、九廣西鐵からバスへと、たちまち予定変更である。
バス・ターミナルに行くと、人が並んでおり、この2階建てのバスが元朗行きだという。
では、と 乗り込むや、すぐ発車。
眺めがいいのに感心しているうちに、バスは町中をでて、あっという間に郊外の高速道路を走る。
元朗は、東京から少しはなれた小田原とか、水戸といった感じだろうか。
中心の大通りには、近代的な路面電車が走り、活気にあふれた街だ。
この路面電車 は、インドの路面電車などとちがって清潔。
ハイテクで武装されているらしく、静かで鋭い加速を見せる。
あれにも乗りたい。
大きなバス停で、錦田(ガムティン)行きを待つ。
54番と教えられた。
こんどは1階建てのバスである。
やっと来た54番のバスに乗りこむと、運転手さんが違うと首を振る。
しかし、乗れという合図をする。
そしてバスは発車。
500メートルも走らないで、すぐに終点についた。
そこはバスターミナルだった。
つまり反対行きの54番に乗ってしまったのだ。
運転手さんは親切にも、前のバスにボクたちを連れて行って、そのバスの運転
手さんに説明している。
彼は了解とうなずいて、料金はいらないと言いながら、手招きする。
錦田で下ろして欲しいと伝える。
54番のバスは、?湾から来た道を戻る。
そして、途中で別の道へとおれた。
15分くらい走っただろうか、田舎のまん中で下ろされた。
埃だらけの街道筋の街といった感じで、のんびりとした昼下がり、アヒルでも歩いていそうだ。
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客家の塀のなか、隣棟間隔はゼロ |
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バス停でバス待ちをする女性に、錦田吉慶園はどこだと聞くと、すぐ近くの建物を指さした。
煉瓦色をした壁のむこうが、客家の住まいらしい。
かつては独特の形をした円形の家に住んでいた人たちも、いまでは塀の向こうの文化住宅に住んでいる。
塀に近づこうとすると、客家のオバサンが近づいてきた。
写真を撮るまねをして、両手で×印を作る。
写真撮影禁止かと思うと、反対に自分の写真を撮って、$10支払えというのだ。
我がお目付役は、並んで写真を撮るから、嬉々としてシャッターを押せと命令する。
小銭が$8ドルしかなかったので、値切り交渉をするが、お釣りがあるという。
仕方なしに$10支払う。
塀のまん中あたりに、四角い門があり、客家のオバサンがたむろしている。
そのなかから1人のオバサンが、すっくと立って近づいてきた。
文化財保護のために、$2ばかりこの穴に入れろ、という。
大きな郵便受けのような形をした、赤さびの鉄板を見ると、小さな口があいている。
そして、大学 ノートくらいの紙に、$2寄付せよと書いてある。
言われないと判らないくらい素っ気がない。
黙って$2入れる。
門のベンチには、あと3人のオバサンが座っていた。
毎日こうしているのだろう。
そのまえを挨拶しながら通る。
充分に歳をとっており、オバサンと言うよりオバアサンという感じだが、たぶんボクより若いだろう。
門のすぐ近くには、神様を祭った部屋がある。
祭壇は中国式で、赤や黄色で派手である。
祭壇の手前には麻雀の卓があり、暇なときはちょくちょく囲んでいますという感じで、緑のパイが転がっている。
中国では女性が麻雀好きらしく、どこでも女性が卓を囲む姿が多い。
塀に直角の中央通りを進む。
客家の人たちは、パリのアパートを小規模にしたような、高密度の中庭付き住宅に住んでいた。
そのためか、文化住宅も隣家とのあいだに、透き間をあけて建てることをしない。
両側には3階建ての建物がせまっている。
中央通りの幅は、1.2メートル程度。
両手を広げれば、両側の家に届きそうだ。
そこから路地が直角に分かれているのだが、これは幅が60センチ程度である。
3階建ての文化住宅が、密集して建っている。
というより、大きな固まりの建物を、各住戸に区画しただけ、といったほうがいい。
四角い建物の外側に、玄関 扉や窓を取りつけたので、狭い通路を通る人には、必然的に室内が見えてしまう。
室内はうす暗い。
ここにはプライバシーという概念はないに違いない。
中央通りの正面には、祭壇を祭った建物がある。
その近くに幼稚園くらいの子供が遊んでいる。
姉と弟であろうか。
姉が小さなビスケットのようなものを食べている。
ボクも食べたいと手を出すと、彼女は1粒分けてくれた。
味はよく分からなかったが、多謝。
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自転車のむこうが喫茶店 |
バス停に戻る。
香港の田舎を歩いてみる。
まったく特徴のないふつうの田舎町。
お茶でもと、喫茶店を探すが、そのようなものはない。
コーヒー店はないし、中国茶だけを飲ませる店はない。
中国風というより、東南アジア的な店を見つけた。
地元の人たちが、ぺちゃくちゃやりながら、食事をしている。
コーラを飲んでいる人もいる。
隣のテーブルにつく。
看板にはコーヒーと書いてあるので、コーヒーを注文すると、アイスコーヒーならあるという。
$5、OK。
お目付役はコーラを注文。
厠(チーソ)?というと、近所の市場のような場所に案内してくれた。
チーソはもう覚えた。
公衆便所らしい。
意外にきれい。
市場は午前中だけらしく、すで に誰もいなかった。
太ったオジサンがご飯を食べていた。
観光客はこんな所へは来ないだろう。
眠ったような小さな町だった。
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